(人生論的映画評論・続/街の灯('31)  チャールズ・チャップリン <「純愛譚」の終焉を告げてフェードアウトしていく、虚構の物語の残酷なる着地点>)より抜粋

 1  一世一代の「純愛譚」に身を捧げる男の物語



 金を蕩尽するだけの富豪と、盲目の花売り娘という定番的な対比にシンボライズされた資本主義への呪詛は、オープニングシーンで滑稽に描かれた「平和と繁栄」の記念の彫像の描写の挿入によって開かれるが、いつものように、製作、脚本、監督、編集、音楽を兼ねた完璧主義によって、希代のマルチタレントであるチャールズ・チャップリンは、この「純愛譚」を基本骨格とする、サイレント映画の掉尾(とうび)を飾るに相応しい物語のうちに、「これでもか」と言わんばかりのコントを嵌めこんでいくことで、ブルジョワ階級の「ふしだらな生活様態」と、その「人間性の爛れよう」を皮肉り、笑い飛ばして見せるのだ。
 チャップリン演じる浮浪者(以下、「浮浪者」或いは、「男」と呼称)は、富豪の自殺を未然に防いだことから知己を得て、金を蕩尽するだけの富豪から10ドルをせしめ、一目惚れした盲目の花売りの美女(以下、「花売りの美女」、或いは、「盲目の美女」、「花屋の娘」と呼称)と再会し、通りがかりの美女から花を買い、富豪に成り済まして、件の富豪のロールスロイスで送るという要領の良さ。

 「ご親切、有難うございます」

 盲目の美女の手にキスして、色男ぶりを演じて見せる。

 「また、来てもいいですか?」と浮浪者。
 「ハイ、どうぞ」と「花売りの美女」。

 こんな風に近接した二人だが、そのシンプルな物語の顛末は、以下の通り。

 盲目の「花売りの美女」に一目惚れしてしまった件の浮浪者は、「花売りの美女」の勘違いから、富豪であると思い込まれた縁で、富豪に成り済まし、一世一代の「純愛譚」を愉悦する。

 実際、自殺しようとした富豪を助けた一件で富豪に取り入って、贅沢な生活のお裾分けに預かる浮浪者。
 
 ところが、アルコール依存症と思しき件の富豪は、酩酊状態時には、浮浪者に大判振る舞いするものの、覚醒すると浮浪者を認知し得ない体たらく。

 そんな中で知った、「花売りの美女」の身過ぎ世過ぎの厳しさ。

 狭いアパートの一室で、年老いた母親と暮らす「花売りの美女」は、家賃を滞納し、大家から立ち退きを迫られていた。

 加えて、大金さえあれば盲目の治療が可能である事実を知った浮浪者は、「花売りの美女」の困窮の一助になるため、ボクシングのリングにまで上がるが、観る者を存分に笑い飛ばすコントの範疇に収まっただけで、当然の如く、頓挫する。

 結局、浮浪者が頼ったのは、件の富豪からの金銭的援助だった。

 偶然、街で出会った件の富豪の状態が酩酊中だったので、1000ドルの大金を受け取ったが、たまたま富豪の屋敷に侵入していた泥棒と出食わして、警官に「現行犯」で追われる始末。

 1000ドルの大金の一件についても、覚醒した富豪は、知らぬ存ぜぬの無責任な態度。

 かくて浮浪者は、1000ドルの大金を「盲目の美女」に手渡して、自分の「役目」を果たした後、警官に「現行犯」で逮捕され、刑務所行き。

 これでもう、映画の大部が費やされるが、本作の肝は、この直後に開かれるラスト・シークエンスにあるので、ここから稿を変えて詳細に言及していきたい。


(人生論的映画評論・続/街の灯('31)  チャールズ・チャップリン   <「純愛譚」の終焉を告げてフェードアウトしていく、虚構の物語の残酷なる着地点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.com/2012/03/31.html