近代スポーツは大衆の熱狂を上手に仕立てて、熱狂のうちに含まれる毒性を脱色しながら、人々を健全な躁状態に誘(いざな)っていく。
これが第一義的価値となる。
勝利感が興奮状態を作り出し、これが歓喜の気分を人々の脳裡に深く焼き付ける。
そして、それぞれのゲームごとに、自己完結感が届けられることになるのである。
近代スポーツが、必ずしも予定調和のラインをなぞっていかない偶然性のゲームであればこそ、勝利感が開いた快適な気分のラインを、思い入れたっぷりにステップ・アップしていくことが可能になるのだ。
近代スポーツでは、勝利という概念に含まれる意味合いこそが何より重要なのである。
思うに、敗北という事実結果から躁状態を醸し出すには、局面的な満足感を上手に切り取って、それを近未来の勝利の予感に繋いでいけるような心情操作に成功した場合に限られる。
敗北による自己完結感の中で夢が繋がれば、近代スポーツの継続力に衰弱の翳りは見られないのである。
勿論、勝敗など度外視して、スポーツを純粋に楽しむという人がいても当然構わないが、多くの場合、それを、限りなく「遊び」に近い娯楽として興じているに過ぎない。
勿論、勝敗など度外視して、スポーツを純粋に楽しむという人がいても当然構わないが、多くの場合、それを、限りなく「遊び」に近い娯楽として興じているに過ぎない。
(心の風景 /「勝者」と「敗者」を作り出す飛び切りの娯楽 -------- その名は「風景としての近代スポーツ」 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_2316.html(7月5日よりアドレスが変わりました)