確信的堕落者

 理想を仮構するから堕落が生まれるのである。(絵画は「イカロスの失墜」ピーテル・ブリューゲル

 理想がなければ堕落もない。堕落せし者は、常に理想を追う者の内側に共存し、対峙し、しばしば理想を蹴って闇を裂く。理想が観念なら、堕落も又観念である。ある人にとって理想であることが、ある人にとって堕落になる。理想も堕落も相対的な観念でしかなく、理想を持たない人には堕落の観念も生まれないのである。

 堕落の観念に苦しみたくないなら、理想を持たないことである。

失墜したくないなら、跳ばないことだ。

 「快楽の落差」への耐性が低いと思う人は、初めから快楽の高度を昇り詰めないことだ。覚悟なくして理想を追うなかれ。覚悟なくして、自らの物語の稜線を伸ばさない方がいい。作られた物語には、いつも少しずつ、理想の観念という隠し味が含まれているからだ。

 近代社会を生きる者の性(さが)として、私たちの物語には、向上とか、進歩とかいう隠し味が溶け込んでいて、これが私たちを時間系列の価値に括りつけて放そうとはしないのだ。この近代の黄金律が私たちを疲弊させ、後方に堕落せし者たちの群れを置き去りにする。堕落とは、私たちの自我から、この向上と進歩という心地良き鍍金(めっき)が剥落された現象なのである。

 向上と進歩という中枢の価値から解放されたとき、人間は果てしなく自由なる旅人になるのだろうか。堕落せし者とは、自由なる旅人の別名なのか。

 理想の軛(くびき)から解かれた後の自我に、果たして、堕落の観念が生まれるのだろうか。失墜という観念に濃厚に張りついた、「理想破れし思い」こそが、いつもどこかで、アンチテーゼの如く共存していた堕落の観念を噴き上げていくのではないか。

 しかし、それは未だ黄金律からの解放ではないとも言える。堕落が進歩剥がしの魔術を駆使するには、堕落の観念を更に突き抜けて、自由なる旅人への推進力になるような、そんな確信的堕落者の領域にまで這い入っていかねばならないようである。

 果たして、そこまで覚悟された堕落者という方法論が、分りやすさだけを求める私たちの文化に、一体どこまで有効なのだろうか。

 いや恐らく、確信的堕落者は、そんな世俗的な思惑を遥かに突き抜けてしまっているに違いない。進歩剥がしという果敢な営為を遂行するほどの自我には、世俗の柵(しがらみ)など初めから無縁なのである。それはそれで良いのだろう。向上と進歩の観念によって、内側を固めたと信じる人たちと同様に。
 
 
(「心の風景/確信的堕落者 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_05.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)