魔境に入る者

 かつて私は、練馬区西大泉町の住宅街の一角で長きに及んで学習塾を運営してきたが、その時代に出来した一つの事件について書いてみる。(写真は西武鉄道池袋線大泉学園駅

 平穏な日常性で安定的に推移していたが、一つだけ近隣に起こった事件で、今なお気になって仕方がない事件があるのだ。1983年に起った、「練馬一家5人殺害事件」がそれである。

 事件についての本格的な調査レポートの類がないので、私の把握する僅かな情報を下地に事件を考えるとき、考えるほどに分らなくなるのは、犯人Aのその度を越した跳躍的行動である。それは狂気としか言えない何かであった。

 無論、動機は理解できる。

 だが、動機と行動を結ぶラインの合理性が、あまりに薄弱なのだ。「それが犯罪というものだ」という声が聞こえてきそうだが、それにしても、折角築き上げてきた自らの平和な家庭を犠牲にしてまで、殆ど確信的に憎んで止まない対象家族を抹殺しようと思い込ませたものとは、一体何だったのか。
 
 まずAは、誰も手を出さない練馬の競売物件を手に入れるために、自分の資産の大半を担保にして銀行から金を借りている。初めから博奕の様相を呈しているのである。1億円余りで物件を入手したAは、これを渋谷の不動産屋に、1500万円ほどの利益を加算して転売契約を結んだ。約2ヶ月以内に一家を立ち退かせることを前提に、Aにはバブルの泡銭(あぶくぜに)が入るはずだった。

 ところが一家の主人は、彼の父親の指示もあって、Aの立ち退き要求に全く応じない。期限が迫り、三日ごとに訪れても、Aは門前払いを喰らうのみ。苛立ちが募り、心の臨界点に達しつつあったAは、契約切れ寸前に遂に犯行に及んだのである。
 
 その日の午後、Aは玄関に表れた一家の妻を殺害した。
 次いで次男、三女、次女を殺害し、主人の帰りを待った。

 夜遅く帰宅した主人は、その惨劇を見て茫然自失の体。Aはここで、約30分に渡って、自分の行為の正当性を激しく主張したのである。極限状況下では、憎悪に勝る者が関係を制する。Aは一家の主人を鉞(まさかり)で砕き、失血死させたのだ。更に、Aは死体をバラバラに解体し、ミンチ状にした。Aには、この相手だけは絶対に許せなかったのである。

 Aは翌日、現行犯逮捕されるが、完全犯罪を狙った割にはあっさりと捕縛され、その表情からは安堵の色さえ窺えたと言う。この男が、初めから完全犯罪を狙っていたとは到底思えない何かが、そこにあった。

 Aには、大学生になる長男、長女、妻とその母によって構成される家族があった。杉並にマイホームを手に入れていたAが、それを担保に入れてまで大博奕に打って出たのは、秋田の香具師(やし)の親分の子として育った血脈の故か、それともバブルの先駆けの申し子だったからか、詳細は定かではない。

 40歳を過ぎて、不動産鑑定士の資格を取るほどに努力家だったAの内側には、父の死後、財産相続のトラブルで弟と争い、刃傷沙汰を起こすような爆発的な性格が同居していたようだ。自分が絶対的に正しく、且つ、相手が理不尽な主張をゴリ押しすると確信したとき、Aはその相手を破壊せずにはいられなかったように思われる。金銭感覚に対して、相当シビアであったように見られるAは、同時に遵法感覚も人並み以上であったに違いない。

 法を無視して居座る一家がAを玄関払いしたとき、Aの中でギリギリに保持されてきた合法的な行動の文脈に破綻が生じた。Aの中で、一気に狂気とも思える感情がプールされていく。

 狂気とは、破壊的衝動が自我の支配を脱して、方向性を持たない自在性を手に入れることだ。

 Aの狂気を開いたのは、一家の主に対する激しい憎悪であったと思われる。憎悪の加速度が、危機に瀕した自我の抑制的補強の速度を一方的に上回っていった、まさにその極点において凄惨な悲劇は起きたのである。

 このときAは、幸福であると信じていたに違いない自らの家族のガードより、敵対家族の破壊をこそ選択したのだ。Aの憎悪は、恐らく、想像を超えるほどの数値を示していたのだろう。Aの主観の中では、マーダラー(殺人者)としての自己認知はない。或いは、日本を真珠湾奇襲に駆り立てたような激しい情念が、Aを動かしたと考えられる。Aは一家に、「宣戦布告なき奇襲」をかけたのだ。

 これは戦争だった。

 Aは戦士となり、一家の籠った家は戦場となった。

 一家を屠ったAは、さながら凱旋兵の如く満たされていて、冷酷なる殺人者とは主観的には無縁であった。だからAは、女子供を殺すことができたのである。
 
 ―― 平和な社会の日常性が崩されて、そこに突如馴染みにくい非日常の闇が広がったとき、それに過剰に反応して、一切の合理的文脈を清算する挙に出る者が必ずいるということ。その反応を戦場のイメージの中で昇華せずに入られないため、残酷を極めてしまうということだ。

 いつの時代でも、愚かなる人間のそんな所業の様態について、シビアに見届けていくべきでる。人の自我がアナーキーな暴走に走ったときの、その抑制に関わる自己管理については、ゆめゆめ安上がりに済ませてはならないのである。

 「練馬一家5人殺人事件」の犯人Aは、自らの「幸福家族」への固執を印象的に見せることなく、一切の既得の秩序を呆気なく清算し、狂気とも思える感情を増幅させるばかりの絶望的な訪問を重ねていった果てに、自らを果敢で孤高なる戦士に変貌させていったように見える。一家の主に対する憎悪感は、殆ど後退できない地平にまで固まっていったに違いなく、この暗い情念が男の破壊的衝動を暴走させ、恐らく、制御機構が機能する余裕のない僅かの間に、圧倒的な狂気の形成が完了したのであろう。

 男は、一家に関わるあらゆる人格の破壊を達成せずにはいられなかった。

 そんな男が最も憎かった対象が一家の主であったことは自明である。その主の破壊の前に、主の家族を悉(ことごと)く始末することで、主を心理的に最も苛酷な状態に追い遣ろうとしたと思われる。男は女子供への殺人に対して、後に反省の念を供述しているが、自らの憎悪感情の激しさを鎮めるには、心理的にも身体的にも、一家の主に対して、最も苦痛を与える方法で破壊し尽くす以外に有効な方略がなかったに違いない。それ故、男が主の家族への殺害を選択的に先行したように思えるのは、男にとって当然過ぎる心理的帰結であったと言っていいかも知れない。
 
 犯行後の男が手に入れた達成感によって、男の憎悪感情が急速に中和されていったことが容易に想像される。もしそこに、男の心の振幅が記録した繊細な文脈があるとすれば、それは単に、男が自らの確信的な犯行の過剰についての、非本質的な若干の反省の程度であったに違いない。男にとって、犯行の過剰もまた不可避であったのだ。

 男は戦争に向かったのである。そのとき男は、戦士以外ではなかったのである。

 既に、男以外の生存者すらいない戦場で、男は一途に一家の主の帰還を待った。遂に戦争に踏み出した男にとって、眼前に広がった修羅の光景は、今そこに待機する、大リベンジへのカタルシスに誘(いざな)って止まない興奮剤であったのか。そしてそれは、帰宅した主の魂を深く抉(えぐ)るのに充分過ぎる効果を持った。この差が、戦争の帰趨をより決定的に分けたのである。

 一家の主は、男によってより決定的に破壊されるためだけに、この夜、自宅のポーチに立った。所詮、戦争を覚悟した者に勝る日常生活者は存在しないのだ。覚悟の差が全てを分ける。男は一家の主を完全破壊するために、戦場で待っていたのである。

 完全破壊とは、相手の身体と自我に一分の蘇生の可能性をも残さないような破壊である。それを見届けることによってのみ、男の自我は中和されるのだ。

 男はまず、一家の主の自我を潰そうとした。男は主に、眼前に広がる修羅の原因が一家の不法占住にあり、自分の再三にわたる警告を無視してきたばかりか、ヤクザの影をもちらつかせて、恫喝さえ辞さなかった相手の愚かさを詰ったに違いない。男は「我に正義あり」と主張し、この「聖戦」の根拠を怒号し続けたのであろうか。

 自我を潰したら、身体を壊すだけだ。鉞(まさかり)という武器は、男の憎悪を処理するのに相応しかった。男は既に戦意を失っている敵を徹底的に破壊し、解体した。その後の男の行動は、男にとって殆ど付随的なものであったように思える。敵の破壊と解体だけが、男の憎悪を中和する。それがほぼ完了した。男は戦争目的を果たしたのだ。もう、何も悔いはないのである。

 吉良を破壊し切れずに自死に追い込まれた浅野の無念を、男は遂にクリアしたのである。その瞬間から、吉良の破壊のみに生きてしまった若き大名の自我には、恐らく、彼の決起によって路頭に迷うことになる家臣への通俗的配慮の念が、殆ど絶え絶えになっていた。男もまた、この文脈をなぞっていったのである。


(付記・男は1985年に、東京地裁で死刑判決を受け、1996年、最高裁にて上告が棄却され、死刑が確定した後、2001年に死刑が執行された)
 
 
(「心の風景/魔境に入る者 」より)http://www.freezilx2g.com/2010/10/blog-post_07.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)