イデオロギーは人間をダメにする

 イム・グォンテクという、シネフィルにはよく知られた映画監督がいる(写真)。

 「韓国映画の良心」とも評価し得るような、一代の巨匠である。


 「1936年5月2日、全羅南道長城生まれ。第二次世界大戦直後の左右抗争の時代、イム・グォンテク一族の多くは左翼的だったため大変な苦労をしており、彼が後年『太白山脈』を映画化したのも、幼少時代の体験と関係があるという。

 左右抗争の混乱期を舞台にした彼の作品には、他に『旗のない旗手』、『チャッコ』などがある。朝鮮戦争中、17歳で家を出、釜山の国際市場で靴修繕などをしていたが、休戦後の映画ブームで知り合いの靴屋グループが映画に投資を始め、彼らに誘われる形で、ソウルで小道具助手・照明助手など映画製作の下働きをするようになる」(「CINEM KOREA」HPより)

 以上の略歴でも分るように、「連座制」によって不利益を被ってきたイム・グォンテク監督の半生は、この国の最も厳しい時代を生き抜いてきた者の、それ以外に辿り着きようがない社会観・人間観を多分に滲ませるリアリストの軌跡そのものだったと言える。

 以下、「NHK『ETV特集・韓流シネマ 抵抗の系譜』2009年6月14日放送」をベースに、イム・グォンテク監督の苦闘の歴史について、簡単に言及していく。

 「チャッコ」(注1)が、「公演倫理委員会」(注2)によって厳しい検閲を受けたときの話がある。

 「当時は自ら検閲官になったのです。ストーリーをこういう風に運んだ場合、明らかにカットされるだろうという思えば、自ら表現を狭めていくのです。しかし、それによって自分が変質させられていく事に気づかないのです。自らが検閲官となって、私自身を検閲するという怖い話です。最も恐ろしい話なのです」(イム・グォンテク監督)


(注1)「智異山のパルチザンと、それを追う警官の話だ。警官は、パルチザンを逃がしてしまったおかげで、免職となる。しかし、その後も彼を追い続ける。よく見られる、『地下鉄サム』のような、犯人と刑事物だ。彼は追い続けてようやく犯人に会うのだが、結局和解する。恩讐を越えて、と言うテーマが、当時はやはり先進的だった」(「NEO KOREA映画祭 佐藤忠男講演」より)

(注2)ワイセツ、暴力、「反共法」に照らして問題がないかを検閲する機関。地下の試写室で12人ほどの審議委員が完成した映画の試写を行い、問題となる箇所を審議。メンバーは保安司令部、KCIA(韓国中央情報部)、警察(内務省)、国防部、民間の識者(大学教授、評論家など)によって構成。

 「チャッコ」の試写のケースを説明すると、テレビ番組の中で「韓国戦争」(朝鮮戦争)の背景を大学教授が解説する場面において、「韓国は米ソ両大国の将棋盤に過ぎない」という台詞が削除された。それ以外にも、3か所の台詞削除があったと言われる。


 イム・グォンテクの少年時代のこと。

 彼の父が左派の活動に巻き込まれ、山に入って行った。それに付いて行った従兄(いとこ)の少年たちから、イム少年は恐るべき事実を知らされる。

 「彼ら(従兄の少年たち)は、大人たちが反動分子を捕まえて、土に埋め、自分たちに竹槍で刺せというので殺した。そういう話をするのです。そんな問題が起こったことが消化されないまま、今も傷痕として残っているのです」(イム・グォンテク監督)

 村に残されたイム少年の母は、左派の協力者として村人から憎まれ、自殺を図ったのである。そしてイム少年自身も、村人たちからの差別と偏見に苦しんだ末に、17歳のとき、村に母を残して家出するに至るのだ。

 イム少年は左派の協力者の家族であるために、普通の仕事には就けなかったと言う。「姦通罪」(有名女優が浮気して、有罪刑になるなど)と共に、韓国社会に形を変えて今も残る、「連座制」(「親日人名辞典」の編纂など)の悪しき犠牲になったのである。

 イム少年が映画監督になるまでの苦労について、今度は佐藤忠男(映画評論家)の講演の中から、些か重複するが、その一部を引用してみよう。

 「監督のおとうさんは途中から運動を離れて、以後は、ひっそりと家にこもって余生を送るようになる。母はそうした家を支えてきた。その苦労するところを見てきたので、監督の初期の映画は、みな女性が苦労する話ばかりだ。

 父親が自首し、『アカの子』と言われて、中学にも行けないほどだった。そういう息もつまる生活に嫌気がさした。そこで無我夢中で家出した。まず木浦に行った。でも仕事があるかはわからなかった。

 イム青年は、とにかく故郷から離れたところに行きたかったという。普通はソウルに行くところだが、ソウルはまだ戦争をしていたので、木浦に行った。

 朝鮮戦争は、最初3、4か月はすごい戦闘だったが、あとは自給戦だった。

 その後、釜山に行く。長男で母を置いてきたのに自責はないのか、と人に聞かれるが、しかし、当時はずっと墓の中にいる気分で、家出して初めて解放された思いになったという。

 港湾の荷役、労働はきつかった。小屋でざこ寝していた。わずかな賃金は、みな焼酎に変わってしまった。当時まだ、14、5だったのに、アル中のような生活をしていた。

 釜山はいろいろな避難民が雑居していた。釜山では、ゴム長を売る生活をしていた。いっしょに仕事をしていた仲間に目をかけられたらしい。

 戦争後、映画に投資する時代になった。当時の仲間の中に、製作担当の人がいてソウルに呼んでくれた。
監督は、食えるならどんな仕事でもいいやと、行った」(「てじょんHP 韓国映画と歌と本」・「NEO KOREA映画祭 佐藤忠男講演」より)


 少年時代の辛い体験は、イム・グォンテク監督の心に深く刻み込まれていて、家出後の彼の苦労を必然化したのである。

 「私は映画監督をする以上は、いつかあの時代を描かなくてはいけない、という義務感のようなものを持っていました」(イム・グォンテク監督)

 そしてイム・グォンテクは、凄惨を極めた「あの時代」、即ち、「韓国戦争」(朝鮮戦争)の時代を、映画監督として既に功成り名遂げた初老期に映像化するに至ったのである。

 しかし、「韓国戦争」を背景にして、民衆の抵抗を描いた著名な文学作品である「太白(テベク)山脈」(金達寿)の映画化が決まったときには、検閲は緩和されてもなお、社会の圧力は根強く残っていた。かつて、父が左派に協力したことに対して、非難の声が上がったのである。

 「アカの息子をあんな映画の監督にさせてもいいのか、という声が上がりました。結局、『太白山脈』は、左派からも右派からも歓迎されない映画になりました。しかし私は、敢えて、そういう映画を作ろうと思っていたのです」(イム・グォンテク監督)

 その「太白山脈」の中で、イム・グォンテク監督は、自分の思いを仮託する重要なシーンを残している。

 左右両派のいずれにも与(くみ)しない中立的な立場を保持する主人公(キム・ボム)にとって、まさにそれ故にこそ、双方から激しい批判を浴びることになったが、そのキム・ボムが、巫女(みこ)の歌に耳を傾ける描写があった。

 「天宮へと 天宮へと 魂よ 道は険しい 休んでいくがよい」

 この歌は、「韓国戦争」で非業の死を遂げた人々の恨みを解き、魂が安らかに旅立てるように慰めるものである。

 この鎮魂の描写こそ、「連座制」の縛りに苦しめられてきたイム・グォンテク監督の、それ以外にない究極のメッセージだった。

 イデオロギーという名の、人間の内側を堅固に縛る観念形態の不毛な暴れ方に、ドキュメンタリー画面を通して、イム・グォンテクは、そこだけは明瞭に言い切ったのである。

 「イデオロギーは実現のために、人間を踏み台にするものなんです。だからイデオロギーを実現させようとする努力は、絶対にしてはなりません。父や家族は、熾烈なあの時代を生きていましたが、私は映画を鎮魂の儀式で終わらせています。もう、あの怨恨から解放される時が来たという思いを込めました。今なお、社会はその考えを持てずにいます」

 「太白(テベク)山脈」について語ったイム・グォンテク監督の、この痛切なメッセージに、私は身震いする思いであった。

 「イデオロギーは実現のために、人間を踏み台にするものなんです。だからイデオロギーを実現させようとする努力は、絶対にしてはなりません」

 この言葉の決定力に、私の内側は、ただ共振するばかりであった。

 苦労知らずの学者が放ったら、殆ど振れることのないその言葉の軽量感に、「分ったようなことを言うな」と一顧だにしなかったに違いないが、成瀬巳喜男とか、イム・グォンテクのような男がしみじみ語るだけで、単純な言葉に含まれる人生の重みは相当の説得力を持ってしまうのである。

 彼が逢着した世界の中で、自ら紡ぎ出した「人生知」が、この何気ないが、とてつもなく重量感のある言葉の内に集約されていた。
 
 
(「心の風景/イデオロギーは人間をダメにする 」より)http://www.freezilx2g.com/2009/07/blog-post_16.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)