歩いても 歩いても(‘07)  是枝裕和 <『非在の存在性』の支配力、その『共存性濃度』の落差感>

イメージ 1序  リアリズムで抜けていく「人生 論」不在の状況の寒々しさ



近年、私が観た邦画の中では、最も上出来の映像だった。

映像全体から伝わってくる空気感と臭気は、私の体性感覚の内に微細な部分をも溶融して、老夫婦の加齢臭のみならず、阿修羅の異形(いぎょう)性まで吸収するに及んで、この作品が、「日常性下に嵌め込まれた非日常の情感濃度」をも映し出す映像であることを感受せざるを得なかったのである。

昨今の邦画界に氾濫する「情感係」ムービーと決定的な所で切れているという点においても、本作は充分に評価できる一篇になっていたが、敢えて言わせてもらえば、「いつもこうなんだよな。ちょっと間に合わないんだ」などという、映像のテーマ性を特段に強調して押し付けるような決め台詞を用意したり、最後のナレーションを挿入する「余分さ」がなお張り付いていて、削って、削って、削り抜いた末に、救いようのない人間の愚かさを、そのまま残酷なまでに映し出してくれた成瀬映画を最も好む私としては、その「余分さ」の分だけ失望させられてしまったのも事実。

それにしても、「ふと口にした約束は果たされず、小さな胸騒ぎは見過ごされる。人生は、いつもちょっとだけ間に合わないことに満ちているのだ」という、言わずもがなの人生の現実を訳知り顔で気取って見せる、本作の公式HPの薄気味悪さには閉口した。

このフレーズを多くのブロガーが多用しているのを目の当たりにして、正直、リアリズムで抜けていく「人生論」不在の状況の寒々しさを痛感させられた思いであった。



1   「非在の存在性」の支配力、その「共存性濃度」の落差感 



―― 批評に入っていく。

この映画の重要なテーマが、上述したように、「黒姫山」の話と、そこに脈絡する「いつもちょっとだけ間に合わない」という次男の言葉に象徴されるように、一年に1、2回しか会うことのない両親の「老い」の実感(横山家の浴槽で、バリアフリーの手すりを見る描写が印象的)を感じつつも、そこに満足に寄り添えない心情にあると考えられるが、私は敢えてそんな映像から特定的にテーマを切り取って、「非在の存在性」という極めて人間学的な問題提起性を重視しているので、その一点に焦点を絞って言及したい。

敢えて難しい表現を使えば、「『非在の存在性』の支配力、その『共存性濃度』の落差感」という風に把握できるだろうか。

公式HPから、簡単にストーリーを紹介する。

「ある夏の終わり。横山良多(りょうた・注)は妻・ゆかりと息子・あつしを連れて実家を訪れた。開業医だった父(横山恭平・注)と昔からそりの合わない良多は現在失業中ということもあり、気の重い帰郷だ。姉・ちなみの一家も来て、楽しく語らいながら、母は料理の準備に余念がない。その一方で、相変わらず家長としての威厳にこだわる父。今日は、15年前に不慮の事故で亡くなった長男(純平・注)の命日なのだ…」

父の家に何とか引っ越ししたいと思っている長女、ちなみと信夫(営業マン)の夫婦は、明朗でドライなキャラクターとして描かれている。

彼らは映像の前半において、家族一同が集まった賑やかさを演出する潤滑油的役割を果たしていくが、映像のテーマ性に濃厚に脈絡する役割を担うことなく、その日の内に退散する。
テーマ性の中で重要なのは、どこまでも老夫婦(恭平、とし子)と、次男家族(良多、ゆかり、あつし)である。

彼らは共に、「非在の存在性」という人間学的なテーマ性を、何某かの重量感の誤差の中で、どこまでも固有な様態を内化させながら、意識の表層辺りで騒ぐ微妙な共存ラインの内に、そこだけはなお失えないもののように抱えているのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/歩いても 歩いても(‘07)  是枝裕和  <『非在の存在性』の支配力、その『共存性濃度』の落差感> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/07/07.html