小島の春('40)  豊田四郎 <情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として>

イメージ 11  「過去の出来事の無慈悲な断罪」への倫理的視座 その①



私たちは今、本作を鑑賞するとき、様々に「問題性」を持つこの作品が、有効な化学療法剤としてのプロミンも開発されることなく、或いは、ハンセン病の感染力の弱さや、遺伝性と無縁な疾病であるという現実への広汎な認知、そして何より、「人権感覚」において遥かに隔たっていた時代に作られた映画であることを明瞭に認知せねばならない。

その点に関して、文化人類学者の学術論文があるので、本人のブログから一文を引用させて頂く。

「(略)これらの私の判断は、現時点での価値観にもとづく過去の出来事の無慈悲な断罪である。この判断が許されるのは、罪の有限性を確認し、処罰と赦しを含めた認識と実践を未来の生活に反映することを約束する者のみである」(『小島の春』断章 池田光穂

全く異議のない論理的思考である。

彼は、こうも書いている。

「小川正子の生きた時代。それは〈健康〉の社会化が最も叫ばれた時代だ。それは自分へのケアのみならず、他人へのケアも見事に社会防衛との関連性を意識させた時代である。社会の大義を実践し、自分が救うべき存在であると錯認し、自己が救われるべき存在であったことを忘却し、そしてそれを追想の中でしか経験できなくなった時、小川の自己の病気からの救済の道は閉ざされてしまった。小川だけでなく我々もまた、同じ道を廻り巡っているような気がする」

ここで言う小川正子とは、言うまでもなく、後に、「小島の春現象」(軍国日本の銃後のモデルとしての、正子の偶像化)という造語が生まれるに至った、ベストセラー手記である「小島の春」の作者のこと。

当然、映画の主人公の「心優しき女医」の小山先生のモデルでもある。

また、「自己が救われるべき存在であったこと」とは、出版当時に、彼女が罹患していた肺結核のこと。
 
彼女が勤務した、「国立療養所長島愛生園」(岡山県)での医官としての疲労も重なったのか、35歳で肺結核を発病し、まもなく、郷里(山梨県春日居村)にて静養生活に入ることで医官を退職(1941年)し、1943年4月に死去するに至った。

享年41歳であった。

絶賛の嵐に包まれた(1940年度キネ旬1位)映画化から3年後であり、手記の文学的価値の高い評価も手伝って、「小島の春現象」の被浴を受けていた只中での病死であった。

ここで、前掲のブログから、彼女についての詳細な言及の部分を、三度引用させて頂くことにする。

些か長文だが、以下の通り。

「明治35(1902)年の生まれの小川の人生は当時の医師としては極めて特異的だった。しかし、別の意味では、当時の人たちが抱く典型的な人間主義的理想像を生きた人でもあった(もちろん小説から垣間見える彼女は聖人君子よりもむしろ仕事に真摯に打ち込む『誠実な人』である)。

小川は山梨の甲府高等女学校を卒業した後、結婚をしたが三年後に離婚し、東京女子医学専門学校に入学し昭和4(1929)年卒業している。『癩救済事業』には在学中から関心をもっていた。岡山にある長島愛生園は彼女の卒業の翌年に設立され、1931年には光田健輔が園長に就任した。

(略)医専卒業後も小川の救癩の情熱は冷めやらずハンセン病療養施設であった東京の全生病院への赴任を希望するが、光田の面接を受け、実地医学の一般研修を先に受けるように諭された。彼女は3年間、細菌学、内科、小児科の臨床経験を積んだ。

しかしながら全体主義的傾向が強かった内務省管轄の施設では、救癩の施設であるにもかかわらず女性医師の任官のチャンスは少なかった。小川は、全生病院(のちの全生園)で働いていた女医の西原蕾や五十嵐正のアドバイスに従い、岡山県の長島愛生園に『直接談判』に赴き、ようやく光田によって受け入れられた。昭和7(1932)年6月のことである。

現在も変わらぬ近代医療の最先端の現場、とくに国立の機関は男性中心主義に独占されており、未だ女性が活躍できる場はすくなかった。他方民間の救癩事業の現場では女性が多くが活躍してきた。癩病というスティグマ(社会的、身体的なハンディを持つ者への烙印・筆者注)を貼られた病者に対する慈愛の精神を体現するのは、洋の東西を問わず聖女たる女性であり、その中で治療と慈愛が女性の性役割に関連づけられていたと考えられる。

ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくことになる。

赴任した彼女の仕事は、長島愛生園での収容者の診療の他に、その3年前に改定された癩予防法のプロトコルに従い、『祖国浄化』――収容政策は関係者の間ではこのように表現されていた――の理想に燃えて、中国四国地方の村々を定期的に巡回検診――より多く病者を発見――することであった」(『小島の春』断章 池田光穂/筆者段落構成)
 
この説明によって、私たちは映画の原作者の時代背景と、彼女自身の人となりや、その個人的事情の難しさが把握できるだろう。

ここで出て来る、「光田健輔」、「全生園」という重要な固有名詞については、ハンセン病に関心を持つ人で知らない人はいないと思われる。

2では、光田健輔と強制隔離政策について、簡単に触れたい。
 
 
 
 
(人生論的映画評論/小島の春('40)  豊田四郎 <情熱、慈悲の深さ、そして偽善 ―― 物語の心的風景として>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/05/40.html