4ヶ月、3週と2日('07)  クリスティアン・ムンジウ <限界状況からの危うい突破への身体化現象>

イメージ 1序  限りなく澱んだ空気の中で



人間の内面的振幅のその微妙な綾を直接的に映し出す手法として、ワンカット・ワンシーンという撮影技法は多分に有効であるであろう。

意図的に揺れ動くハンディカメラが女子大生の走る後ろ姿を捕捉することで、少なくとも、彼女の不安や緊張感を再現することに成就したとも言えるからである。

一貫して音楽とユーモアを排除した本作の導入は、その日常性の中に出来した溢れるような不安感情を、観る者の内側との心理的共有を果たすべくダイレクトに開いて見せるのである。

まもなく、物語の核心部分が説明されることで、観る者は二人の女子大生の内面世界に少しずつ踏み込んで、そこに凝縮された感情の断片を共有するに至るだろう。

厳格なリアリズムに徹した本作のストーリーラインは、妊娠中絶する当人のあまりに非自律的な不手際によって、より不都合な状況を作り出し、そしてその状況の逢着点が、強引に予約を取ったホテルの一室での閉鎖的状況であった。

そこに今、三人の人間がいる。
 
一人は、やむなく妊娠中絶を引き受けることになった医師ベベ。

あとの二人は女子大生。

一人は、妊娠中絶を求める当人のガビツァ。

そしてもう一人は、ルームメートであるガビツァから妊娠の事実を告白され、彼女のために金銭の確保(裕福な家庭の恋人からの借財)や、ホテルの予約等で奔走するオティリア。

この闇の中絶手術を実施する空間であることの閉塞性によって、手術に関わる三人を閉じ込めたかのようなホテル内の一角の、息が詰まる圧迫感が漂う閉鎖的状況下で、この医師以外に頼るべき伝手(つて)を持たない二人の女子大生が、選択の余地のないその非武装の脆弱さを晒していた。

そんな二人の弱みにつけこんで、彼女たちを心理的に威圧し、不条理な「取引」を強いる中絶医の男が支配する、限りなく澱んだ空気の中で、本作の最も重要なシークエンスが、そこに開かれたのである。

本稿はそのシーンを再現することで、この真摯な映像が訴える本質的なテーマに言及したいと思う。


(人生論的映画評論/ 4ヶ月、3週と2日('07)  クリスティアン・ムンジウ  <限界状況からの危うい突破への身体化現象> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/04/07_14.html