近代スポーツは大衆の熱狂を上手に仕立てて、熱狂のうちに含まれる毒性を脱色しながら、人々を健全な躁状態に誘(いざな)っていく。
これが第一義的価値となる。
勝利感が興奮状態を作り出し、これが歓喜の気分を人々の脳裡に深く焼き付ける。
そして、それぞれのゲームごとに、自己完結感が届けられることになるのである。
近代スポーツが、必ずしも予定調和のラインをなぞっていかない偶然性のゲームであればこそ、勝利感が開いた快適な気分のラインを、思い入れたっぷりにステップ・アップしていくことが可能になるのだ。
近代スポーツでは、勝利という概念に含まれる意味合いこそが何より重要なのである。
思うに、敗北という事実結果から躁状態を醸し出すには、局面的な満足感を上手に切り取って、それを近未来の勝利の予感に繋いでいけるような心情操作に成功した場合に限られる。
思うに、敗北という事実結果から躁状態を醸し出すには、局面的な満足感を上手に切り取って、それを近未来の勝利の予感に繋いでいけるような心情操作に成功した場合に限られる。
敗北による自己完結感の中で夢が繋がれば、近代スポーツの継続力に衰弱の翳りは見られないのである。
勿論、勝敗など度外視して、スポーツを純粋に楽しむという人がいても当然構わないが、多くの場合、それを、限りなく「遊び」に近い娯楽として興じているに過ぎない。
勿論、勝敗など度外視して、スポーツを純粋に楽しむという人がいても当然構わないが、多くの場合、それを、限りなく「遊び」に近い娯楽として興じているに過ぎない。
「遊び」の本質を、「自由・非日常・没利害」という風に定義したのは、オランダの歴史家・ヨハン・ホイジンガだが(「ホモ・ルーデンス」中央公論社)、まさに、この遊びの世界に厳密なルールを設定すると共に、そこに資本主義のビジネスラインが介在させ、且つ、「戦争の代用品」という理念系が推進力となって「勝者」と「敗者」を作り出すことで、「勝利⇒興奮⇒歓喜」というラインを雄々しく立ち上げられたのが近代スポーツだった。
近代スポーツは、それ故、自然に進化を果たしてきたのではない。
ゴルフ、射撃、サッカー、水泳、ラグビー、ヨット、自転車、ボクシング、ホッケー、バトミントン、テニス、 陸上競技、などはイギリスで、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、バレーボールはアメリカで生まれ、より高度な技巧の進化によって現在に 至っているのは周知の事実。
ゴルフ、射撃、サッカー、水泳、ラグビー、ヨット、自転車、ボクシング、ホッケー、バトミントン、テニス、 陸上競技、などはイギリスで、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、バレーボールはアメリカで生まれ、より高度な技巧の進化によって現在に 至っているのは周知の事実。
それは多くの場合、近代スポーツとは隔たった素朴な娯楽の文化の中から、それを必要とする人々によって人工的に、理念的に発明 され、発展を遂げていったのである。
その意味で、相手を必要とするスポーツで、記録を残さず、ただ楽しむだけに身体を展開するゲームを観る者もまた、勝敗抜きにゲームと付き合うという世界は、殆ど前近代の何かであるか、或いは、単に社交のツールとしてのゲームでしかないであろう。
ジョギングがマラソン競技と異質なスポーツであるように、勝敗による自己完結性を持たないスポーツは、ここ百年間の間に欧米で発明された近代スポーツのラインから逸脱するものである。
ジョギングがマラソン競技と異質なスポーツであるように、勝敗による自己完結性を持たないスポーツは、ここ百年間の間に欧米で発明された近代スポーツのラインから逸脱するものである。
無論、そんなラインからの逸脱を歓迎しないわけではない。
それが近代スポーツの周辺で、個々の多様な事情に即した消費を果たしていればそれでいいだけの話である。
勝利こそ、近代スポーツにおいては第一義的価値である外にないのだ。
(新・心の風景/「勝者」と「敗者」を作り出す飛び切りの娯楽 -------- その名は「風景としての近代スポーツ」 )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/06/blog-post_2316.html