1 犯罪者の気質と無縁な女性が「共犯関係」をどこまで継続できるのか、という問題意識
この映画の最大のポイントは、自分が関わる犯罪の内実を知りながら、本来、犯罪者の気質と無縁であると思わせる女性が、そこで出来した「共犯関係」をどこまで継続できるのかという一点に尽きる。
即ち、ごく普通の人間なら普通に形成してきたであろうというレベルの、「良心」という名の「理性的自我」の発動を抑え切ることがどこまで可能なのか。
だからヒロインを、限りなく犯罪者の気質と無縁な女性であると印象づける、このようなタイプの人物設定にしたと考えられる。
このテーマで物語を構築していけば、どこまでも、ヒロインの視線と内面をフォローし続ける、物語の風景の由々しき変容に重点を置いたシナリオが作られても特段に違和感がないだろう。
その結果、たとえ、「共犯関係」が切れていなかったとしても、ヒロインが関与し得ない「外部世界」のシーンが大胆にカットされたことで、物語の緻密な繋がりを切断させる技法のうちに表現されていたが、良くも悪くも、それが却って「鑑賞者インボルブ型」の、ヒロインの内面深くに侵入し得る効果を生み出したとも言える。
―― 以下、簡単な梗概を書いておく。
アルバニア移民のロルナの目的は、ベルギーの国籍を手に入れること。
クローディのオーバーユーズによる死を前提にした偽装結婚の先に待つのは、ベルギー人となったロルナがロシア人と結婚することで、ベルギーの国籍を売るというもの。
紛れもなく、この「あってはならない犯罪」の「共犯者」を継続させられる運命を負ったロルナは、多額の資金を得て、アルバニアの同郷の恋人と共に、憧憬の対象だった「自分の店」を持つために、ヘビードランカーのクローディとの物理的共存を選択するに至った。
紆余曲折する物語は、そこから開かれていく。
2 「雑音を吐き出す壊れたCD」というイメージが、「援助を求める病理の人格」というイメージに変換されていく心的行程①
「ロルナは今まで嘘ばかりついてきた女性だ。虚偽の結婚をして、人をだまそうとしてきた。嘘と真実の戯れの中で生きてきた」(ダルデンヌ監督、アルタ・ドブロシに聞く・映画の森)
これは、ジャン=ピエール・ダルデンヌ監督(兄)の言葉。
偽装結婚に関わった者としての悪銭を目当てにするという、由々しき犯罪に加担する事態に象徴されているように、「嘘と真実の戯れの中で生きて」きて、今も、その「前線」の中枢で生きているロルナだが、それでも、ごく普通の女性が懇望するサイズの夢を持ち、自らはクリーニング店で仕事する労働移民としての日々を繋いでいた。
後者の一点に限って言えば、ヒロインのロルナが、「普通」の範疇に近い女性像として人物造形されていたことは否定しようがないだろう。
そんなヒロインが、自らが関与した、「あってはならない犯罪」の「共犯者」を継続させることは、闇の組織の世界にどっぷりと嵌り込む類の自己像変換を遂行しない限り、殆ど困難であると言っていい。
ロルナの視線と内面をフォローし続ける物語の中で映像提示された内実を見る限り、彼女は、偽装結婚に関わった者としての悪銭を目当てにするという由々しき一点を除けば、クリーニング店で真面目に働いていて、その生活風景からは、人格的な致命的破綻を拾うことはできない。
然るに、そんなヒロインが、「ごく普通のサイズの夢」を具現するために、「あってはならない犯罪」の「共犯者」として加担し、「嘘ばかりついてきた女性」の悪しき人生を延長させてしまったのである。
本職がタクシードライバーでありながら、闇の組織のボスのファビオが仕切る偽装結婚のパートナーとしてチョイスされたヘビードランカーが、ロルナに対して、「君の顔を見れば一日の目標が出来るかも知れない」などという言葉を、男女関係の介在なしにメッセージを送波し続けていたこと ―― それが、「あってはならない犯罪」の「共犯者」であるヒロインの内面を、決定的に変容させていく心理的なバックボーンにあった。
(人生論的映画評論・続/ロルナの祈り(‘08) ダルデンヌ兄弟<「雑音を吐き出す壊れたCD」が「援助を求める病理の人格」に変換されたとき>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/01/08.html