別離(‘11)  アスガー・ファルハディ <「善」と「善」の対人的葛藤の物語と対比される、「善」と「善」の内的葛藤の物語>

イメージ 1 1   予期せぬ事態にインボルブされた者たちの対人的葛藤と内的葛藤を描く物語 ― 梗概。


   
家裁の離婚調停の場に臨んだナデルとシミンの夫婦は離婚許可が下されず、別居を選択するに至る。

離婚理由は、アルツハイマー型の認知症を患う父への介護を優先するナデルと、一人娘テルメーの教育環境に不満を持ち、国外移住を望むシミンとの埋め難い対立があるが、既に離婚に振れる価値観の相克が垣間見えていた。

今や、父の日常の世話が喫緊の課題となったナデルは、ラジエーという名の女性を雇うが、失禁する現場を目の当りにして動揺を抑えられないラジエーは、男性の体に触れることが罪ではないかと憂慮し、聖職者に相談して許可を得る程の敬虔なイスラム教徒。

事件が起こったのは、ラジエーが勤め始めて早々のことだった。

子供連れのラジエーが、ナデルの父をベッドに縛りつけた状態のまま外出したことで、ベッドから転倒し、酸素吸入器を必要とするナデルの父が意識不明になるという事件が出来する。

帰宅後、激昂したナデルはラジエーを難詰し、高級アパートの戸口から強引に追い出してしまう。
 
その衝撃で階段に倒れ込んだラジエーは、胎児を流産してしまった

自らが犯した行為に対して自覚のないナデルに対するペナルティが、最も苛酷なかたちで待っていた。

ラジエーと、失業中の夫ホッジャトの提訴によって、ナデルは殺人罪で問われるに至ったのである。

殺人罪で告訴された理由は、受精後120日を過ぎた胎児が「人間」と看做されるというイランの法律が存在するからである。

ここから、二つの家族による裁判闘争が開かれていく。

その背景には、共に乗用車を保有する、銀行員であるナデルと、英語教師であるシミンの家庭に象徴される中流階層と、失業中の夫に内緒で、長時間も要してバス通勤を余儀されてまで生活費を稼がねばならない、ホッジャト夫婦に象徴される下層階層の経済事情の問題が横臥(おうが)している。

検察と判事を兼ねるイランの裁判の経緯は、自分の無実を証明できないナデルにとって不利に展開したばかりか、両親の離婚の危機に心痛が絶えない、11歳になる一人娘のテルメーの不安を掻き立てていくばかりだった。

果たして、ナデルはラジエーの妊娠の事実を知っていたのか?

そして、ナデルの暴力的振舞いによって、ラジエーが流産してしまったのか?

そこだけはサスペンスの筆致で展開するドラマの中心は、どこまでも予期せぬ事態にインボルブされた者たちの対人的葛藤と内的葛藤を描いているという点において、前作の「彼女が消えた浜辺」(2009年製作)と同質の構造を有しているが、本篇では、「イラン社会の現在」を活写しているという意味で、多分に「社会性」を内包している。
 
しかし、アスガー・ファルハディ監督の射程には、「別離」に至る夫婦と、一人娘の葛藤を通して、〈状況〉に翻弄される人間の〈生〉の様態を精緻に描き出すことにある、と私は考えている。



2  「当事者熱量」を噴き上げた「善」と「善」の葛藤の物語



これは葛藤の物語である。

葛藤とは、個人間の人格同士に形成される対立の様態であると同時に、個人の内面に発生する共存困難な欲求の存在様態である。

ここでは、まず、前者の葛藤の物語の様態に言及したい。

それは、期せずして惹起した事態に、否応なくインボルブされた者たちの葛藤の物語である。

しかし、それは物語の表面的骨格である。

物語の表面的骨格の内実は、「当事者熱量」を噴き上げた「善」と「善」の葛藤の物語であると言っていい。

即ち、ナデルとラジエーという、個人間の人格同士に形成された対立の葛藤の物語である。
 
然るに、共に相手を傷つけることを目的としないという点において、そこには限りなく、「善」と「善」の衝突と葛藤が、深い内面描写にまで届くように精緻に描かれていた。

説明的で不必要な描写を大胆にカットすることで、深い内面描写の成就にまで導き得たのである。

人生と精神と生活の骨格を揺さぶるような、対人的葛藤の尖り切った風景を通して、後述するように、二人は決定的なところで嘘をついていた。

しかし、その嘘は、私の「嘘の心理学」という把握から言えば、「防衛的な嘘」という概念で説明できる嘘である。

因みに、 嘘には三種類しかないと、私は考えている。

 「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。

己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。

それとも、相手に対する気配り故のものか、という風に分けられる三種類の嘘がそれである。

この中で、彼らのついた嘘は、紛れもなく、それぞれが抱える深刻な事情に端を発した「防衛的な嘘」である。

 この対人的葛藤の中心人物であるナデルとラジエーの葛藤が、「善」と「善」の衝突であることを検証するエピソードは、本作の中で印象深く描かれていた。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/別離(‘11)  アスガー・ファルハディ  <「善」と「善」の対人的葛藤の物語と対比される、「善」と「善」の内的葛藤の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/01/11_13.html