あ、春(‘98) 相米慎二<「非日常」の揺動感の中で、ほんの少し骨太のラインを成す共同幻想を再構築していく物語>

イメージ 11  更新された「日常性」を巧みに操作し、安定化させていくことの困難さ



「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。

 従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。

 「日常性」のこの傾向によって、そこには一定のサイクルが生まれる。

 この「日常性のサイクル」は、「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つというのが、私の仮説。

 しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。

 「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。

 「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。

 その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。

従って、仮に「日常性」が安定したとしても、それが「至福」のイメージのうちに、「穏やかなる〈私の死〉」に軟着していく保証など全くないのだ。

例えば、重篤な疾病、身内の死去、離婚や別離、失職、更に、自らが意志的に選択した〈状況〉で被る様々な被害なら「自己責任」を問う余地があるかも知れないが、自らが求めもしないのに、「外部事件」にインボルブされることによって「日常性」が壊されることだって間々ある。

由々しきことに、自我を安定させるために作り上げてきた「日常性のサイクル」が、何某かの「非日常」の襲来によって破綻した物語のラインが収束したとしても、そこに覗き見える「日常性」の風景が、それまでの「日常性」のそれと様相を異にする場合があるという現実である。

そこで更新された、未だ馴染みにくい「日常性」が、それまでの「日常性」のフラットな風景よりも、決して本人が望んでいない劣悪なイメージのうちに捕捉されるケースがあること ―― これが厄介なのである。

しかし時として、そこで更新された「日常性」の風景が、本人が抱懐していたイメージよりも遥かに強靭で、健(したた)かなランドスケープの情景を手に入れる可能性もあるということ ―― このような僥倖が拾えるが故に、大袈裟だが、一見、「パラレルワールド」(私たちの世界が、同一の次元で「異界」と共存しているというSF的発想の産物)との近接感覚を惹起させるような「非日常」の襲来を、心奥で求めて止まない何かが捨てられないのだろう。

更新的生命力の発現を被浴するに足る「日常性」の構築こそ、ある意味で、「未知」への探求に振れる私たちホモサピエンスの宿命かも知れないのである。

人生は儘(まま)ならないが、自分の内側を深々と通過していった「非日常」の破壊性によって、自らの拠って立つ生活や関係の基盤を強化することも考えられるのだ。
 
運良く、危うさを随伴するその時間を突き抜けることができたら、今度は、更新された「日常性」を巧みに操作し、安定化させていけばいいのだが、その安定が困難であるのは当然過ぎることである。

本作は、まさに、その辺りを描いたホームコメディであった。

そして、そこで出来した、毒素と思しき「非日常」の相貌は、前述したような要件を含んでいたからこそ、ごく普通のサラリーマン生活を常態化させていた中流家庭を決定的に揺るがしていったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ あ、春(‘98) 相米慎二<「非日常」の揺動感の中で、ほんの少し骨太のラインを成す共同幻想を再構築していく物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/02/98.html