苦役列車(‘12) 山下敦弘 <「青春映画」の「光と影」の反転性を照射させる自業自得の「青春敗北譚」>

イメージ 11  「劣等感」の心理学



自我形成の内的行程の中で生じる、他者との競争意識におけるネガティブな感情傾向の総体。

これが、「劣等感」(精神医学用語の概念としての「コンプレックス」にあらず)についての一般的定義である。

「劣等感」が、他者との競争意識における負の感情であるということ ――  そこに、「劣等感」をエネルギーに変換させる心理学的文脈がある。

それが、他者の視線を捕捉する感情傾向であるが故に、「劣等感」はどこまでも相対的な概念とであるということだ。

当然ながら、「劣等感」に関わる負の感情について、自らが負う「私の悩み」と同質的感情を、その同質性の濃度において、他者と共有し得る何ものもない。

「私の悩み」はどこまでも、「私の悩み」以外のものではないからである。

その「私の悩み」を他者が理解し得たとしても、「私の悩み」の同質性において共有する何かではないのだ。

他者もまた、自分がそうであったとイメージし得るような「私の悩み」で悩んでいたとしても、それは、他者の人格の固有の「私の悩み」以外の何ものでもないのである。
 
このように、「劣等感」は、その意識の強度において多寡の差はあれども、「劣等感」から完全に解放されている人間など存在しない。

人間は「完成形の存在体」ではないからである。

その拠って立つ自我の内側で、人間は、「私の悩み」を様々な心的風景を巡らせつつ負っているのである。

だから、そこに集合する負の感情の根源において、固有の「劣等感」を、人格変容を印象づける強大なエネルギーに変換できなくとも、それを希釈化させる方略が存在する余地が生まれるだろう。

「劣等感」を抱えるという、その厭(いと)わしい現実を決して否定せず、且つ、捩(よじ)れ切った態度で肯定もしないという方略である。

「私の悩み」のルーツとしての、唾棄すべき「劣等感」の存在を否定しないこと ―― まず、この認知が重要になる。
 
自我に張り付く「劣等感」を明瞭に認知し、ときには居直ってもいい。

しかし、居直りながらも、それを肯定しないのだ。

否定しつつ、肯定すること。

矛盾するようだが、このスタンスが重要なのである。

居直りながらも肯定しないということは、その冥闇(めいあん)を突き抜けようとする、一定のエネルギーが内側に貯留されていることを意味する。

「私はダメだ」と、とことん卑下しつつ、「このままじゃ済まないぞ」という感情が自我の内側に張り付いているから、そこからの反転が可能になる。

こういう防衛機制を駆使する能力が、人間には内在するのだ。



2  「青春映画」の「光と影」の反転性を照射させる自業自得の「青春敗北譚」



本作の中で考えてみよう。
 
「北町貫多。19歳。小5の時、父親が犯した性犯罪により一家離散。中学卒業後、日雇い人足仕事で、その日暮しを続けている。唯一の楽しみは読書」

これが、本作の主人公の、現在の人生の相貌性を端的に説明する冒頭のナレーション。

「その日暮しを続けている」現在の怠惰な生活の様態が、「父親が犯した性犯罪により一家離散」という、あってはならない事態の延長線上にあることが判然とするが、そこで被弾した負の感情が貫多の自我に張り付いていて、覆い難い「劣等感」のルーツとなっている内的風景が容易に想像し得るもの。

それにしても、貫多の履歴の負のルーツが、物語の中でもリピートされるが故に、複数回に及ぶナレーションは、あまりに説明的であり過ぎなかったか。

ともあれ、児童期に被弾したトラウマによって抱え込んだ負の感情が、人間関係の健全な形成を妨げることで、著しく社会的適応を困難にする屈折的自我を作り上げてしまっていた。

それが、捩れ切った「劣等感」という化け物にまで肥大し、青春期に至るまでに累加され、抱え込んだ膨大なストレスを、「風俗」の世界で発散する。

言わずもがな、このストレスの発散によってのみ、辛うじて守られた自我の内側に貯留された、「劣等感」の塊を溶かし、昇華するには至らなかった。

そんな中で知り合った、しごく普通の同年代の青年、正二との関係の中で手に入れた「友情」の実感を、相互補完し合う「健全」な様態で形成されていくことがなかったのは、貫多の中で、「友情」のスキルの出し入れを学んでいなかったからである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/苦役列車(‘12) 山下敦弘 <「青春映画」の「光と影」の反転性を照射させる自業自得の「青春敗北譚」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/02/12.html