反撥(‘64)  ロマン・ポランスキー <「約束された狂気」のルーツに潜む性的虐待という破壊力>

イメージ 11  キャロルの内面を揺動する「男性恐怖症」



50年近くも前に、これほどの完成度の高い作品が創られていたこと自体、殆ど奇跡的である。

廊下の壁から無数の手が現れるなど、サイコサスペンスの範疇の中でシュールな画像が連射されているが、それらは全て、神経症(神経質にあらず)を病んだヒロインの想像の産物であって、物語の基調は、徹底して冷厳なリアリズムに則っていた。

完璧な映像の、完璧な構成力に、敢えて不満を述べるとすれば、物語の暗欝なラインの心理的風景に横臥(おうが)すると言っていい、その決定打とも言える解答を、ブリュッセルで撮ったポーランド人の家族の写真が提示されていたこと ――  それに尽きるだろう。

このラストカットなしでも読解可能な映像の凄みを、些か希釈化させたような「家族写真」の持つ重みは、本作のヒロインの「男性恐怖症」のルーツとなっていることを暗示しているが故に、序盤でのワンカットの映像提示のみで充分だったのではないか。

ラストカットの「家族写真」の中で、わざわざ、スポットライトを当てられた二人の人物、即ち、本作のヒロインの少女時代と、その傍らに座っていた、少女の父親らしき人物。

完璧な映像に、屋上屋を架してしまったような、ラストカットの決定打は余計だった。

それなしでも、観る者は、奇妙な構図で撮られた、「家族写真」という映像提示の意味を考えざるを得ないからだ。

しかし、この映画の凄さは、一貫して、台詞による説明的な描写を完全に削り取っていたこと。

説明的な台詞を一切省いて、映像のみで勝負されたら、文学はとうてい勝ち目がないだろう。

―― 以下、物語を簡単に追いながら、人生論の視座で批評していきたい。

揺動する内面を象徴するかのような、虚ろで、虹彩の輝きを失った瞳から開かれた、本作のヒロインの名はキャロル。

エステサロンに勤めている。

生活力があり、人生を自由に謳歌する生き方を繋いでいるように見える、姉のヘレンと共に、ロンドンに来てアパート暮しをしながら、日々、ごく普通の勤務を延長させている姉妹である。

キャロルの内面世界が大きく変容していったのは、姉のヘレンが、妻子持ちの男マイケルと懇ろな間柄になった辺りからだった。

夜な夜な洩れ聞こえる、隣室からの姉のよがり声が、それでなくても、恋人のコリンに体を触れられ、さっと回避する仕草や、エレベーターで爪を噛む行為など、神経症的な性格を露わにしていたキャロルの内面を食い潰していったのである。

眠れず、苛立つキャロル。
 
キャロルの中で封印されていたトラウマが、「アクティングアウト」(衝動や葛藤の身体化)されていく負の状況を作り出し、加速的にキャロルの神経は病んでいく。

室内の時計の音や、電話や呼び鈴、街路から洩れてくる機械音、更に、大道芸人が弾くマンドリンの大きな音などが、耳に響くように侵入してくるばかりか、腐らせたウサギにハエの飛ぶ音、芽が生えたジャガイモや、部屋の壁の亀裂などが視界に喰い刺さってきて、遂には、職場での危ういヒューマンエラーを惹起させるのだ。

キャロルの内面世界の揺動の真相を、説明的な台詞を捨てた映像は、限定された会話の中で拾い上げることをしなかったが、提示された映像の中で分明になるのは、前述したように、大きくフォーカスされた一枚の「家族写真」である。

その写真の中に収まっていたのは、後述するが、恐らく、祖父母と姉のヘレン。

そして、父親と思しき一人の男。

その画像の後方に写っていたのが、ファインダーに眼を合わせず、虚空に眼を移す一人の少女。

キャロルである。

この「家族写真」の映像提示と、姉のよがり声に過敏に反応する、キャロルとの繋がりが顕在化していくのは、姉が愛人と共にイタリア旅行に行くために、留守になる現実に直面した事態によってである。

それは、彼女自身の「男性恐怖症」に由来することが露わになっていく現象と、パラレルに投影されていく。

男性に対するトラウマとして現出する「男性恐怖症」が、異性愛への無関心を惹起させる端的な例証は、キャロルの恋人、コリンとの関係の脆弱性の中で露呈されていた。

コリンとの食事のデートを忘れ、皹(ひび)が入ったアスファルト舗装の路面の前で、立ち竦むキャロル。
 
元々、彼女は、デートを約束するコリンの言葉を、うわの空で聞いている始末だった。

以下、デートを忘れられて怒ったコリンとの、空虚な短い遣り取り。

「ちょっと様子が変だぞ」
「よく分らないの。自分でも」
「食事に行こう」
「もう、遅いわ」

それだけだった。

恋人の車の中で、二人は黙っている。

男がキスしようとすると、顔を避けるキャロルは、嫌々ながら応じるばかり。

当然、コリンに見透かされている。

後ろから、爆音を立てて車が接近して来る機械音に反応したキャロルは、思わず、車外に出て、そのまま帰ってしまった。

キャロルは、アパートのエレベーターの中で、唇を右手で拭っている。

部屋に戻ると、洗面室で歯ブラシをし、男の体臭を消そうとするのだ。

それは、形式的な恋人とも思しき男との、形式的な関係の脆弱性を検証する以上に、深刻な病理の発現様態でもあった。
 
 
(人生論的映画評論・続/反撥(‘64)  ロマン・ポランスキー <「約束された狂気」のルーツに潜む性的虐待という破壊力>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/03/64.html