やわらかい手('07) サム・ガルバルスキ  <「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう>

イメージ 11  「感動譚」を成就させる推進力として駆動させた文化としての「風俗」



難病と闘う孫を、その孫を愛する祖母が助ける。

「あの子のためなら何でもするわ。後悔なんて少しもよ。家くらい何なの」

冒頭シーンで、既に家を手放した祖母が、息子に吐露した言葉だ。

祖母の名は、マギー。

ロンドン郊外の町に住んでいる。

この冒頭シーンで、予備情報を持たない観客は、本作が在り来たりの「感動譚」であるというイメージを想念するだろう。

大抵、この類の「感動譚」の物語構成は、「無償の愛」という犠牲的精神をフル稼働させて、その「無償の愛」によって救われる「心優しき愛の受給者」と、「心優しき愛の供給者」という関係性の枠内で安直に処理されるケースが多いからだ。
 
そんな安直な設定だけでも感涙に咽ぶ「物語の需要者」が、この世にごまんと存在するが故に、いつしか「物語の供給者」も、マンネリ化した「感動譚」を過剰に垂れ流す不埒な戦略に鈍感になっていく。

挙句の果てに、「物語の需要者」にも飽きがきて、この類の「感動譚」の連射も頭打ちになっていく運命を免れなくなるだろう。

ところが、「感動譚」の定番の如き虚飾と欺瞞に満ち満ちた話を、この映画は、観る者が思わず赤面するような直球勝負で描かないのだ。

あろうことか、この「感動譚」を成就させる推進力として駆動させたもの ―― それは、およそ「感動譚」とは無縁な文化としての「風俗」であったこと。

そこが、この映画の最も面白いところでもあった。



2  「ゴッド・ハンド」を持つ「イリーナ・パーム」の立ち上げ



何かと問題が多い、「NHS」(英国の国営医療サービス事業)の制度によって、一応、治療費は無料だが、難病の故、可愛い孫の治療はオーストラリアでしか実施し得ないので、地理的に離れたオーストラリアまで、遠路遥々、出向かねばならず、宿泊代等を含めた費用たるや6000ポンドの大金を捻出せねばならなかった。

難病と闘う孫を助けるために、祖母のマギーが窮余の一策として選択した職業が、何と性風俗店でのアルバイトだった。
ロンドンの歓楽街として有名な、ソーホーの一角にある性風俗店でのマギーの「仕事」 ―― それは、壁に穿たれた小さな穴の向こうに立つ男たちのペニスを「手コキ」することで、男たちのザーメンを放出させてあげるという、ある意味で実に簡単な「仕事」だった。

壁の向こうの「美女」を想像しながら、列を作って居並ぶ男たちを射精させる技術は容易ではないと思われるが、その辺りをスル―した物語で描かれていくのは、当然の如く、世間擦れしていないマギーが、最初は嫌がっていたこの「仕事」に馴れることで、店一番の「達人」ぶりを発揮していくという顛末と、そのことが彼女の人間関係に与える余波である。

何はともあれ、「風俗」の「仕事」に対するマギーの抵抗感を要約すれば、その「仕事」が「道徳」に背馳するということだろう。

ここで、この想定外の物語構成について考えてみよう。

要するに、社会的に支持された規範を「道徳」と呼ぶなら、この「道徳」という規範体系もどきの文化フィールドと隔たった距離にあるだろう、インモラルなイメージが被された「風俗」に、「無償の愛」の一念で驀進(ばくしん)する「心優しき愛の供給者」をリンクさせることで、その「無償の愛」の「善行」=「高い道徳性の表現」にさざ波を立ててしまう物語構成が、この映画の基幹の骨格を形成しているのだ。

 
 
(人生論的映画評論/やわらかい手('07) サム・ガルバルスキ  <「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/10/07.html