リアリズムの宿(‘03) 山下敦弘 <癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作>

イメージ 1序   癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作

何度観ても、笑いを堪えられず、ラストの「小さな救い」では心を打たれ、涙を誘われてしまう80分間の短尺の映画に詰まっているものは、オフビート感満載の滋養ある青春ドラマの訴求力の結晶である。
 
ひたすら、人間という厄介な存在に興味を持つ作り手の、その観察眼の鋭い切れ味は、決して「空白」の時間に流れない、人間同士の内的交叉が生む絶妙な「間」の中で、「情感」の出し入れの営為を惜しまない、この国の人々の呼吸のリズムを把握する能力の高さに起因するのだろう。


山下敦弘監督の独特の空気感が支配する、その映像宇宙が縦横に弾けた本作は、癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作として、今でも、等価交換不可能な私の宝物となっている。




1  二人の若者の距離感を通して生まれる、「間」の感覚の軽妙な可笑しさ



見るからに寒々しそうな、初冬の曇天の日。

荒波寄せる日本海に面する、鳥取県鳥取市河原町に国英(くにふさ)駅がある。

ウィキによると、駅舎内部に乗車駅証明書発行機があるだけで、木造駅舎は待合所以外の部分が解体されていて、難読駅名として知られている無人駅である。

その駅舎の小さな構内の一画に、大人一人分の距離を保持して、二人の若者が気まずそうに、無言で立っている。

そこに、背の高い若者の携帯が鳴った。

「あ、俺だ。ちょっとすいません」

隣に立つ男にそう言って、その若者は、駅舎の寒々しい構内を離れて、携帯を取った。

「もしもし、船木。今、どこ?え、マジで。え…えまじで?2度寝?…5度寝じゃねぇよ、全然笑えねえよ…こっち着いちゃってるからさ。…え、来てるよ、挨拶したよ。しない訳ねぇじゃねぇか、顔、知ってるんだから。いや、だから直接しゃべったことねぇから…うん、大丈夫だけど、とにかく早くこっち向かってよ。うん・・・」

ここで、若者は、構内で待機しているもう一人の若者と交代し、携帯を渡した。

「もしもし、まだ家出てないの。…うん…うん。で、俺どうすればいいの?… 知ってるけど。行こうと思えば。いや、怒ってないよ。あ、怒ってないけど、来てよ早く。…うん…うん、分った。あ、坪井さんて俺より上?…いや年……あ、下!下!オーケーオーケー!うん、分った分った。じゃ」

携帯を切ったその若者は、駅舎の構内で待機している、先の若者に携帯を返した。

「ありがとう」
「何て、言ってました?」
「…うん…まぁ、色々言ってたんだけど・・・とりあえず俺、旅館の場所知ってるから・・・」
「はい」

ここで、相当長い「間」ができる。

「旅館の場所知ってる」と言いながら、ずっと沈黙を保持する男の「非行動」を感受した背の高い若者は、一言、言葉を添えた。
 
「行きますよ」

遠慮げにそう促されて、「非行動」の若者は、何も言わず、先に歩いていく。

その後に付いていく背の高い若者。

これが、本作の冒頭のシークエンス。

4分間の長回しである。

観る者に提示されたのは、二人の若者が相互に顔を知っている程度の関係であること。

そして、何某かの目的で鳥取県に来たが、二人の若者を仲立ちし、この「旅行」のプランナーらしき男が、まだ来ていないという事実である。

その理由は、件の男が寝坊してしまったこと。

その名は、船木。

「非行動」の若者の名は、木下。

後に、背の高い若者の名は、坪井という事実が分明になる。

以上、群を抜いて面白い本作のエッセンスが、この冒頭のシークエンスのうちに象徴的に描き出されていると思えるので、その詳細を再現した次第である。

この冒頭のシークエンスのうちに象徴的に描き出されていたもの ―― それは、「友達の友達」という内実の乏しい関係であるに過ぎない、二人の若者に特化された関係が表現する、対象人物間の心理的距離感を通して、そこで生まれる「間」の感覚の軽妙な滑稽感であり、且つ、その時間が延長されていくときの、「非日常」のゾーンに侵入していくが故に醸し出すだろう、「間」の感覚の微妙な交叉が累加されていくイメージに結ばれる滑稽感であると言っていい。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/リアリズムの宿(‘03) 山下敦弘  <癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/04/03.html