靖国 YASUKUNI ('07)  李纓  <強引な映像の、強引な継ぎ接ぎによる、殆ど遣っ付け仕事の悲惨>

イメージ 11  記録映画作家としての力量の脆弱さ



 人の心は面白いものである。

 自分の生活世界と無縁な辺りで、それが明瞭に日常性と切れた分だけ新鮮な情報的価値を持ち、且つ、そこに多分にアナクロ的な観劇的要素が含まれているのを感覚的に捕捉してしまうと、「よく分らないけど、面白かった」という気分を運んでくることが多々あるだろう。

 この「靖国 YASUKUNI」という映画と出会ったときの人々の普通の感覚は、恐らく、そのような類の感懐をもたらす何かであったに違いない。しかしそれは、本作の作り手が恐らく確信的に仕掛けてきた、極めて創作性の高い映像の稚拙なトリックに嵌り込んだ感性の所産でもあるだろう。

 ここには「死」、「暴力」、「祭り」という人間の非日常的な世界を具現する要素が、そこだけは見事に嵌め込まれていて、この見透かされた映像の凡作の極みを中和することで、ほんの少し「底」を突き抜けたと感受させるような構成力を持ち得ていたとも言える。

 「靖国」という名の異次元の世界が運んできた不思議なる映像宇宙の内に、危うく、厄介で非日常的な触感をもたらす情報群は、作り手によって特定的に切り取られた負の時間を自在に往還し、舞い、低音旋律の徘徊に随伴する気分が心地良い辺りでシャッフルされるから、極めて印象度の濃密な情報が「選択的注意」(情報を特定的に選択すること)によって相応の自己完結を果たすのである。

 声高にならない映像の怖さがしばしば散見されるが、この映画は本質的な所で、その「怖さ」にも届き得ていなかったのだ。

 ―― その辺りを本稿の問題意識の中枢に据えながら、映像のラインに沿って、その都度、必要な分だけの解釈を加えてフォローしていきたい。

 まず、一人の老人の殺陣のカットが披露された。
 
そのシークエンスの中に、刀の鋳造を予想させるカットが含まれて、すぐにその老人が刀匠である事実が判明する。刀匠の節くれだった手がアップで映し出されながら、限定的なボキャブラリーの中で日本語を駆使する作り手のインタビューが、静かに開かれていくからだ。

 まもなく、タイトルとパラレルに映し出された際に、恐らく、「靖国の刀匠」としての厳しい表情が期待されたに違いない当該人物の本来的な柔和さが、アップの被写体の構図の中に、より一層の善良さが際立ってしまっていたのである。刀匠の人柄の片鱗は、「感謝状」を自ら読み上げる描写の中で微笑ましく切り取られていた。

 「洵」(まこと)という字を読めずに、それを「ここ」と読んでしまった際、恥じらいを含むその声は小さく、いかにも遠慮げであったエピソードの裏に、本作の作り手によって読誦を頼まれても断れない人の善さが透けて見えたのである。
 そしてその描写の直前に、本人には預かり知らないだろう「肉食系」のキャプションが、それもまた声高にならない程度の抑制的な音楽の律動感を随伴して、遠慮げに紹介されていたのだ。

 「昭和8年から終戦までの12年間、“靖国刀”と呼ばれる 8100振の軍刀靖国神社の境内において作られた」

 この辺りの描写に関して、現実の資料を提示して異論を唱えている人がいるので、以下、その主要部分を抜粋する。

 そのテーマは、「映画『靖国』が隠していること」。
 
執筆者は、「靖国」(新潮社刊)の著者でもある坪内祐三である。なお以下の稿は 、「15年戦争資料」というHPからの引用である。

 「・・・このままでは質の高い日本刀を作る鍛錬技術がすたれてしまうという危機意識が、昭和8年の日本刀鍛錬会設立となったわけだが、2度目の危機は、敗戦直後のいわゆる『昭和の刀狩り』の時に訪れ、製作の復活がゆるされたのはサンフランシスコ講和条約締結以後の事だ(『靖国刀』巻末の『関係者一覧』の履歴を見て行くと刈谷さんは昭和27年に講和条約記念刀を製作していてどうやらそれが刈谷さんの戦後第一作のようだ)。
 
 こうして日本刀の鍛錬技術は命脈を保たれ、昭和57年7月、靖国刀を作っていたかつての仲間達18人が集まり、日本刀鍛錬会の創設50周年に当たる昭和58年7月8日に合わせて新たな靖国刀を合作することを決めた(つまりそれがこの映画の冒頭に登場する感謝状の意味なのだが、その点に関しての何の説明もないから映画を見ている人間は今でも毎年のように靖国刀靖国神社に奉納されているような──しかも御神体として──誤解を受ける)」(「文芸春秋 2008年6月号」より)

 要するに、このとき刈谷氏が読み上げた「感謝状」とは、日本刀鍛錬会の創設50周年に当たった際に鋳造した靖国刀であって、靖国神社のオフィシャルと関連づけるには無理があるというものである。

 以下、その辺の指摘についても、執筆者は書いている。

 「まるで靖国神社がオフィシャルでそのような刀を製作しているかのような誤解を見ている者に与えそうだが、その誤解は、それに続くキャプションで増幅されて行く。つまり黒のバックの画面に、小さく、『昭和8年から終戦までの12年の間に"靖国刀"と呼ばれる8100振の軍刀靖国神社の境内において作られた』というキャプション(実際は横書き──以下同)が流れる。そして刈谷さんがその"靖国刀"を作った刀匠の最後の生き残りであることを知らされる。そして刀匠のアップの直後は、本作の中枢である『日本刀』という象徴性に被されたイメージを、明瞭に具象性を持ったキャプションの内に繋がっていくのである」(同誌より)

 執筆者は、日本刀が靖国神社御神体である映像の説明を明確に否定していることも書き添えて、本稿は先に進もう。

 「明治2年 靖国神社設立 天皇のための聖戦で亡くなった靖国の神“英霊”として祀り続けている 246万6千余の軍人の魂が移された一振りの刀が靖国神社御神体である」

 「靖国神社御神体=日本刀」という誤謬については、多くの人が指摘している所だが、本稿はその辺の問題点を特段にピックアップするものではないので、ここからは、本作を映像のストーリーラインに沿ってフォローしていこう。

 8.15。

 後ろ姿の軍服のラインの先頭に立つ民間団体の老人が、ゆっくりと言葉を噛みしめるように、その堅固な思いを明瞭に結んでいく。

 「大東亜戦争終戦60周年。祖国のために殉じ、戦争の犠牲となられた戦没者の英霊の御霊よ、安らかに眠りたまえ 母国の英霊の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます 合掌」

 その後も、8.15の定例行事のように、次々と軍服に身を包んだ人たちが参拝していく。

 暫くすると、制服を着た青年たちの参拝風景が印象的に映し出された。本作の宣伝ポスターに使われたあの有名な構図が、そこに記録されたのである。

 彼らは恐らく、去年もそうであったうような出で立ちで粛々と柏手を打ち、参拝を終えるや、ラインを乱さず参道の中枢を抜けて行った。正真正銘の我が国の現役自衛官であるが、映像を観る者は、彼らが本物の自衛官であることを特定できないイメージの中で、ある種の怖さと滑稽さを持って、この構図を解釈したとも思える。

 その後、この現役自衛官からの抗議があったという報道を眼にすることはなかったが、本作の作り手による、些か強引なこの手法は、ポスターの主の立場の難しさ(提訴できない弱み)を知悉(ちしつ)した上での確信的行為とも考えられるのである。

 因みに、この撮影に関しては、有村治子参議院議員自民党)が国会で取り上げた「肖像権」の問題として、本作の上映に関わる一連の騒動の中で耳目を集めたが、しかしこの国には未だ「肖像権」という明瞭な定義による立法化が為されていないので、単に「人格権」の問題の範疇の内に処理されているのが現状だ。撮られる者もその事実を認知しているはずだから、後に映像公開された際に、製作者側に抗議するという問題が生じるだけである。そこで生じるのは、「人格権」の侵害の有無というレベルの問題であるが、その本質は、自分が望んでいたイメージが再現されたか否かという次元の、所謂、「期待権」の誤差にしか存在しないとも言われている。

 それについては、本稿に限定すれば、筆者自身の問題意識の枠外にあるので、稿の最後で格好の引用文を利用させてもらうことで、引き続き自らの継続的な問題意識にしたいと思っている。

 ―― 本作に戻る。

 8.15に群れを成す組織化された人々のラインは、本作が15分を過ぎた辺りに「天皇陛下万歳!」を唱和する描写によって一つの小さなピークを見せた。

 「刈谷直治(90歳) 現役最後の靖国刀匠 今も“靖国刀”を作り続けている」
 

このキャプションの挿入によって、刀匠の名が、「刈谷直治」という人物であることが観る者に了解される。

 このシーンの中で、本作の作り手は刈谷氏に、当時、どんな気持ちで刀匠たちが境内の中で靖国刀を作っていたのか、英霊に守られているという思いがあったのか、という意味の発問をする。

 更に、そこに何か特別な意味を持っているのか、という途方もない作り手の問いに、適切に反応する言葉を持ち得ないで沈黙するばかりの印象を与える刈谷氏。相手のインタビューに誠実に答えようとする思いがありながらも、何某かの事情があるのか、くぐもってしまう刀匠の、困り果てているかのような表情が映し出されていくのである。

 「困ったね…ううん…」と刈谷氏。

 笑顔を消さないように努めているようだった。

 「覚えていることだけでも…気持ちとか、印象とか・・・当時のね…」と作り手。

 静かな口調の中に、作り手は戦前の刀匠の軍国魂を必死に探ろうとする。

 結局、何も答えられない刀匠がそこにいた。

 当然ではないだろうか。

 思い出せない現実があると同時に、当時、高々20代の青年が、靖国神社の刀匠たちの心の世界の何が理解できたのかという問題もある。そして何より、「現役最後の靖国刀匠」と言われる刈谷直治氏が、その頃、果たしてどのような立場にいたのかについて全く判然としないのである。

 この映像からほぼ明瞭に読み取れるだろう心理的風景 ―― それは「現役最後の靖国刀匠」が、作り手の発問に誠実に答えようとしながらも、その答えを持ち得ないで済まなそうに振舞うその誠実さである。

 或いは、この描写での刈谷氏の心理的風景を、以下のように考えられなくもない。

 即ち、ごく「普通の時代感覚」で考えた場合、当時、刈谷氏は「普通の日本人」のそれと違(たが)わない、ごく「普通のレベルの愛国心」の持ち主であり、その思いの延長線上に、靖国刀の鋳造に対する、氏なりのごく「普通の矜持」を持っていたことが推測される。
 
 従って、作り手の本質的な発問に対して、刈谷氏がお茶を濁すような反応を示したとしても全く可笑しくないのだ。そんな心理的風景がそこに漂流していたと仮定しても、いや、それならばこそと言うべきか、本作のの作り手は、微妙に揺れているかも知れない相手の内面とシビアに対峙して、「現役最後の靖国刀匠」の深奥に斬り込んで、そこで露わにされた裸形の世界に鋭利に肉薄していくべきではないのか。そこにこそ、自らが特定した被写体の内面世界の深い部分に届き得る、確信的表現者が獲得した映像的到達点が見られるのではないか。

しかし私たちがそこで出会ったものは、あまりに緊張感を失った時間が晒す、気まずい沈黙が運ぶ精気の稀薄な空気感以外ではなかった。既にこの時点で、記録映画作家としての力量の脆弱さが検証されてしまったのである。
 
 
(人生論的映画評論/靖国 YASUKUNI ('07)  李纓  <強引な映像の、強引な継ぎ接ぎによる、殆ど遣っ付け仕事の悲惨>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/04/07_29.html