鍵泥棒のメソッド(‘12) 内田けんじ <完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力に成就した、完成形のエンタメムービー>

イメージ 11  完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力に成就した、完成形のエンタメムービー



ほぼ完成形のエンタメムービー。

面白過ぎて、快哉を叫びたいほどだった。

完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力、演じる俳優たちの完璧な表現力。

近年の邦画で、これを超えるコメディは出ないと思わせる説得力が、本作にはあった。

前半の緩やかな展開から、記憶を復元させた「殺し屋」が支配する物語の、予測困難な変転とする展開が、得てして、スラップスティックに流れやすい、複雑に交叉する状況を収斂させていくリスクを克服し切った、ある種の「シチュエーション・コメディ」の腕力に、正直、脱帽する。

 以下、簡単な梗概。

失恋自殺に失敗した三文役者の桜井は、たまたま見つけた銭湯券で銭湯に入るが、そこで、一人の男が石鹸で足を滑らして頭を強打し、救急車で搬送された事故のどさくさに紛れて、ロッカーの鍵をすり替えて、その男に成り済ます。

元々、悪意がなく、男に成り済ました桜井は、あろうことか、男の高級車を乗り回し、財布の大金を使って、これまで貯め込んだ借金を返済していく。

一方、病院に運ばれた男は、神経機能麻痺に起因する軽度記憶喪失と診断され、以降、桜井にポジション・チェンジした男は、偶然、父親の見舞いに来ていた、婚活中の女性編集長の香苗と出会い、退院後も、彼女のサポートを得て、必死に記憶を取り戻そうと努力する。

実は、男の正体は、依頼主も顔を見たことがない、伝説の「殺し屋」・「コンドウ」だった。

桜井だと思い込んでいる「コンドウ」は、自分が役者である事実を知って、真面目に努力する日々を送っていく。

「コンドウ」を婚活の対象人格と特定するに至った香苗を交えた、三者三様の人生模様が、そのコンドウに「殺し」の依頼をした極道の工藤が複雑に絡み合って、先の見えない変転著しい物語が展開していく。



2  「努力こそ最強の能力」という思考を持ち得る者たちと、粗慢なる男との際立つ能力差



本作の中で、私にとって印象深いシーンは、二つある。
 
その一つは、「コンドウ」という名の、香川照之演じる「殺し屋」が、依頼主の極道のボス・工藤から疑われた際に、堺雅人演じる三文役者の桜井に、殺人の現場の「演技指導」をするシーン。

あまりに面白いから、これを再現してみる。

 役者とは思えぬほど、リアリティの欠如したアクションで、「殺し屋」にダメ出しされる桜井。

 「何だ、それ?いいか、突然、腹を刺された場合、そんなに早く体は反応できない。まず、衝撃。それから事態の把握。緊張。それから、痛みだ。もう一回やってみろ!」

「衝撃」⇒「事態の把握」⇒「緊張」⇒「痛み」。

この流れによる「死」のリアリティの欠如を、「殺し」のプロから、的確に指摘されるのだ。

もう一度リハーサルしても、一言でダメ出しされる桜井。

「ダメだ、お前は演技の基本ができていない」

「殺し屋」の指摘は声高になっている。

「緊張のところができていないんだよ。もっと、客観的に自分の体を捉えろ」

 そこまで言われて、三文役者の虚栄心が、立ち上がりざま、思わず反応する。

「俺の中では、しっかり緊張は感じてたよ!」

演技の基本を中傷されたから、余計、感情が入り込んでいるのだ。

「感じてたって、ダメなんだよ!どう見えるかが全てだ!」

睨み合う二人。

「俺の演技は、ストラスバーグのメソッドを基本にしてるんだよ!もっと、心理的アプローチを使ってプランを立てたい」
「お前の部屋にあったストラスバークの本、最初の8ページしか読んだ形跡なかったぞ。他の事も全部そうだ。ちょっとやる気だして、勉強しようと思っても、本、買って来ただけで満足しちゃう、一番ダメなタイプの人間だろ、お前は」
「人殺しに説教されたくないよ」

本人たちが真剣であるが故に、却って、吹き出してしまう会話である。
 
「ストラスバーグのメソッド」とは、アメリカで体系化された演劇理論で、役に成り切って、心理面を精緻に表現する演技法のこと。

だからこそ、まさに本質を衝かれて、今はもう、このようにしか反撃できない桜井には、「殺人リハーサル」を拒否する術がない。

「時間がない。もう一度やるぞ」

 このシーンは、「殺し屋」のこの一言で閉じていくが、物語の主役二人の性格傾向が、鮮やかに表現された描写だった。

 残念ながら、この二人の、「殺人リハーサル」はあっさりと頓挫する。

 そのリハーサルを実演中に、そこにやって来たのが肝心の工藤一派ではなく、記憶喪失中の「殺し屋」であると知らずに、熱心に彼をサポートしていた婚活中の女性編集長・水嶋香苗であった。

その直後に、工藤一派が出現することで、「殺人リハーサル」が頓挫するという経緯になるが、工藤一派に逆に追われる3人組は、相互に詳しい事情を説明し合う余地もなく、車で遁走するという流れになっていく。

実は、単なる便利屋で「殺し屋」ではなかった「コンドウ」(=山崎)には、当然、本物の殺しを実践したことがないにも拘らず、下手な役者相手に、完璧な演技を求めて指導するには、彼なりの学習的努力の蓄積がなければ不可能なのである。

何事においても、完璧に仕事を遂行する男の能力の秀抜さの源には、当然ながら、このような努力の累積が裏付けられているということ ―― これが大きかった。

何しろ彼は、軽い脳震盪で、外傷性のものではないとは言っても、一過性の神経機能麻痺で記憶喪失の状態になっているが故に、「自己同一性感覚」の喪失という、人間にとって最も根源的な自我の危機に直面したのである。

「記銘」⇒「保持」⇒「想起」⇒「忘却」という流れによって成る、記憶のプロセスの喪失が意味するのは、「自分が何者であるか」という自己同一性感覚が奪われる事態の深刻さであった。

この由々しき事実を確認するために、山崎は、自己リサーチのためのノートを作り、そこに、「好きな物は焼き鳥・・・」、「演技とは?」、「性格・悲観的?計画性がない?浪費家?涙もろい」などという言葉を書き連ねていく努力を、寸分も惜しまないのである。

そんな男に、同じような価値観を持つ、広末涼子演じる香苗がアプローチし、深い関心を抱き、短い期間に心が通じ合い、プロポーズしていくという柔和なエピソードが拾われていたのは、生前中の父に、「結婚した娘」の姿を見せたいという思いがあったにせよ、この二人の関係を強化づけるモチーフに流れていたのは、「努力こそ最強の能力」であるという価値観の共感感情であったと言える。

 
(人生論的映画評論・続/鍵泥棒のメソッド(‘12) 内田けんじ <完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力に成就した、完成形のエンタメムービー>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/01/12.html