この国で、「野球」とは何だったのか ―― 「体育会系」から「知的体育会系」への風景の遷移

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1  「体育会系」という行動体系の本質
 
 
 
 
 
場所は、甲子園室内練習場。
 
そこで実施された、「新人合同自主トレ」の中での笑えないエピソード。
 
2017年1月14日のこと。
 
未だ、プロの合同自主トレに慣れていない3人の新人に、檄を飛ばした男がいた。
 
男の名は、「浪速の春団治」・「球界の春団治」と呼ばれている阪神OB会長・川藤幸三。(以下、敬称略/因みに、初代・桂春団治は、「酒・金・女」の破滅型芸人で、戦前のスーパースター)
 
檄の内容は、「酒1升飲まんかい」。
 
20代前半の、3人の新人・一人ひとりに、川藤幸三は「お前ら、酒は飲めるんか?」と聞き質(ただ)した後、言ってのけたのだ。
 
「プロに入ったら、酒ぐらい飲めるようになれ!」
 
それを傍らで耳にした統括スカウトが、慌ててストップをかけた。
 
「何を言ってるんですか、OB会長が」
 
川藤幸三は、そこでも言ってのける。
 
「そんなもん関係あるかい!自分の好きなようにやったらええんや」。
 
川藤の真意が、「真面目なだけでは、プロの荒波を乗り越えられない」というメッセージを託したことにあると、このエピソードを発信したスポーツ報知は客観的に伝えているが、これを読んだ私には、「1升飲めるように頑張ります。投手陣との距離を詰められたらと思います」と頷いた野手ルーキーとの会話のうちに、ヒューリスティック(簡略化された推論で結論に達する方法)な判断で動きやすい「体育会系」の極端な行動体系を見てしまうのだ。
 
総合コーチ経験もある川藤幸三自身に対して、全く悪感情を抱くことがないばかりか、最低保障年俸の中で、「川藤ボックス」(身体障害者への甲子園球場の年間予約席)を作るという優しさを持つ男の人気の秘密を知りならも、彼の言動には、「体育会系」の極端な行動体系が弾け切っていて、今や、スポーツ界で常識と化している、科学的メンタルトレーニングの無知・無自覚さに大いに疑問を持たざるを得ないのである。
 
ついでに書いておきたい。
 
普通、日本酒を1升以上飲んだら、「微酔期」➡「酩酊期」➡「泥酔期」と続く酩酊度が、最終段階である「昏睡期」にまで進み、「血中アルコール濃度」が0.40%(急性アルコール中毒を起こしたら、1〜2時間で、約半数が死亡する状態)になり、脳全体が麻痺状態になると言われ、呼吸中枢(延髄)も危機的状態となることで、最悪の場合は死に至るということ。
 
ここで重要なのは、「酒に強い体質」と「酒に弱い体質」とは全く関係がく、どこまでも飲酒量で決まる「血中アルコール濃度」の問題であるということだ。
 
 
スポーツ一般に共通するが、本稿では、川藤幸三プロ野球人生に貫流する、「体育会系」の行動体系について、日本限定で定義してみると、以下の5点に集約されると考えている。
 
  上下関係(権力構造)
  共有志向
  礼儀の重視
  組織依存性
 
以上の5点だが、この問題意識を持って、「体育会系」の極端な行動体系「体育会系原理主義」について、我が国の「野球文化」の体質を総括していきたい。 
 
 
 
2  リアリズムなき「体育会系」の迷走
 
 
 
ここで想起されるのは、些か古い話だが、2008年の北京オリンピックで編成された「星野ジャパン」。
 
韓国との準決勝に敗れた挙句、マイナーリーグの選手で編成されているアメリカとの3位決定戦にも敗れ、メダルなしの4位という無残な結果に終わる。
 
4勝5敗という信じ難い負け越しの成績を残して、「星野ジャパン」と称される、「野球」の国の「国民的球技」が致命的な有り様を晒し、その後、元監督自身のブログの炎上に象徴される苛烈なバッシングを惹起させていった。
 
この「星野ジャパン」の本質を、どう把握したらいいのか。  
 
私はそれを、本稿の表題にあるように、「リアリズムなき『体育会系』の迷走」と把握している。
 

言葉を換えれば、「リアリズムの自己完結」が遂行されなかったということである。  

それこそが、「星野ジャパン」の本質であった。

 
【目標設定→ 状況分析→ 戦略・戦術→ 万全の準備 →総括・検証】―― この基本的な流れが合理的に進んでいくことによって、そこに一定の自己完結を結ぶとき、私はそれを「リアリズムの自己完結」と呼んでいる。  
 
とりわけ、限定的な状況下で困難な課題を主体的に引き受ける限り、リアリズムの視座によって、どこまでも冷徹に課題解決を図る必要があるということだ。
半年にも及ぶペナントレースの場合には、徹底したリアリズムの方略ではなく、星野流の「情による管理」も奏功するだろうが、僅かなミスも許されない短期決戦においては、何よりも、「リアリズムの自己完結」の完遂のみが勝敗を分けると断じていい。  
 
では、「星野ジャパン」の場合、果たしてどうだったのか。
 
まず、「目標設定」について。  
 
これは、「金メダル以外いらん」と言い放った監督自身の言葉に象徴されるように、それが最大の目標であったとしても、この言葉は、既に充分過ぎるほど傲慢である。
 
単に、「金メダルを目標にして、チーム一丸となって頑張りたい」と言うだけでいいのだ。
 
その発言には、「北京五輪野球で、金メダルを獲る価値があるのは、『星野ジャパン』以外にない」という含みを印象づける奢りが潜んでいる。
 
相手を見縊(みくび)るメンタリティが、そこに踊り、舞い上がっているとさえ思われるから厄介なのだ。  
 
「状況分析」について言えば、コンピューターを精力的に導入した三宅博(元プロ野球選手で、阪神タイガースのコーチを経てスコアラー人生を送る)ら、名スコアラーが収集した、膨大な価値あるデータを生かし切れなかったのではないかということを言い添えておきたい。
 
次に、特定目標の成就のために、データ・戦力を効果的に運用する総合的なスキルであり、また、その戦略に沿って定めた具体的手法が「戦術」であると把握した上で、精密な「戦略・戦術」の問題について言えば、私は、「星野ジャパン」のネックになっていたと考えている。
 
一言で言うと、パワーベースボール(ビッグボール)で立ち向かってくるに違いない敵に対して、我が国独特の「スモールベースボール」という「戦略・戦術」を採ったにも拘らず、この「チーム」には、専門分野における専門職による役割分担という、組織的な機能性・合理性・科学性が欠落していたように思われるのである。
 
更に言えば、国際試合であればあるほど重要になる、「審判」という環境に合わせた「選手選び」(ストライクゾーンへの対応力のある選手を選抜基準にする)・「試合までの準備」・「試合運び」が決定的に欠けていたと言っていい。
 
特に、国際大会における審判諸氏に関する綿密なデータ収集を、名スコアラーに要請しなかったツケが、星野監督の執拗な抗議によって、審判を敵に回してしまった行為に繋がってしまったのである。
 
それ故にこそ、「リアリズムの自己完結」という把握の中の、「万全の準備」の不足の問題は看過できなかった。
 
限りなく、「最大集中力」に近い能力の発現を保障する状態を作り出すように努め、「最高身体条件」を保持するという最も重要な条件が、「星野ジャパン」の中で作り出せなかったこと ―― そこに、この「チーム」が組織としての効果的な能力の発現を妨げていた最大の理由があったと思われるのだ。
 
故障者続出のメンバー選考をしながら、「現時点で、日本の最強メンバーである」という会見をした監督の言葉に驚きを禁じ得ないのである。
 
「心の中が整理できていない」(上原浩治の言葉)選手を、星野監督はメンバーに選んだだけでなく、彼にクローザーの役割を期待していたのである。
 
その上原浩治に対し、「1週間の合宿で、立ち直らせます」という、星野監督の自信に満ちた言葉が、いかなる根拠に基づくものなのか、一切不分明である。
 
まさに、その不分明さの内に、「精神主義」オンリーの「体育会系原理主義」の傲慢さが印象づけられてならないのだ。
 
「万全の準備」なしに、極めてハードルの高い、最高到達点に上り詰めることは不可能であるということ。
 
それを肝に銘じなければならない。  
 
そのためには、当然の如く、日本球界挙げての強力なバックアップが不可欠な要件になるだろう。
 
ペナントレースのほんの短い時間を特定的に切り取って、そこで切り取った分だけの熱量・技量・力量のみで、最高到達点への短縮ルートを手に入れられると思うのは傲慢の極みであると言う外ないのである。  
 
「日本が一番強い」という根拠のない過信のみで、同様に、最高到達点を目指して努力するライバル国をねじ伏せられると思うのは、あまりに安直な観念ではないのか。  
 
「星野ジャパン」の自壊現象は、まさにその内側に、「闘争集団」としての万全の準備を怠った緩々(ゆるゆる)の精神構造に根差していると言えるのだ。
 
結局、「闘争集団」を率いるスタッフの「戦略・戦術」の甘さと、「万全の準備」への致命的怠慢 ―― 一切が、そこに集約できるとまでは言わないが、少なくとも、そんな初歩的なレベルの瑕疵(かし)を抱えたチームが簡単に勝てるほど、国際試合、なかんずく、オリンピックという特段にハードルの高いステージは甘くないということである。
 
「万全の準備」―― それなしに、「リアリズムの自己完結」はあり得ないということに尽きるだろう。
 
従って、「星野ジャパン」は、残念ながら組織としての体を成していなかったということだ。
 
組織としての体を成さない集合体は、「チーム」であり得る訳がなく、単に「プロの野球選手の寄せ集め」でしかないだろう。
 
そこには、「チーム」として有効に機能し得る、高度な「集団凝集性」(集団化された個人の能力の結晶性)が形成される余地などなかったのである。
 

心の風景 この国で、「野球」とは何だったのか ―― 「体育会系」から「知的体育会系」への風景の遷移 より抜粋http://www.freezilx2g.com/2017/02/blog-post.html