1 人間は「先入観」なしでは生きていけない
人間が思惟(しい)し得る理念の次元を超え、感覚を刺激する外界をあるがままに認識することができないが、経験の背後にあり、それ自体は不可知であるものと考えて、「超越論的自由」の可能性が開く知的な秩序 ―― これが「物自体」である。
「主観」のフィルターを通して経験したものが「世界」と出会い、交叉し、内的な自己運動を繋いでいくのである。
当然、この「観」の中に、多くのバイアスが詰まっている。
「主観」のフィルターなしに、人間は「世界」を認識できないのだ。
私たちは、バイアスが詰まった「主観」のフィルターによって「世界」を知り、外部状況の渦の中の「情報群」から特定の情報のみを選択し、それに注意を向ける「選択的注意」の心理学(「カクテルパーティ効果」)で得た情報を特化し、自分の都合のいいように濾過(ろか)しつつ、「観」に束ねられていく。
だから、自らを囲繞する不都合で、未知なる〈状況性〉に「適応」することが求められるのは必至である。
多くの場合、この「適応」が妥当性に欠ける評価をもたらしながらも、同時に、効率的で、有効性を保証すると信じ得るので、「先入観」が払拭されることがないだろう。
まさに、「物事を正しく行う」に足る「効率」を信じ、「正しいことを行う」が故に、「有効性」に対し、私たちは疑うことをしないのだ。
「先入観」によって、人間は未知なる〈状況性〉への「適応」を可能にしているのである。
この時点で、「観」を集合させた「先入観」が、未知なる〈状況性〉への「適応」を自壊させない限り、私たちの「情報群」のうちに収斂された「観」の束は延長されると言うべきか。
経験の背後にあって、「超越論的自由」の可能性が開く知的な秩序 ―― カント流の「物自体」は、「先入観」を無化する怖さを希釈するための、未知なる〈状況性〉への「適応」を可能にする人間の基本戦略なのだろう。
以下、このテーマを敷衍(ふえん)して、心理学の興味深い実験について考えてみたい。