「先入観」の心理学

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1  人間は「先入観」なしでは生きていけない
 
 
「物自体」(ものじたい)という哲学概念がある。
 
カント哲学の基本概念あるが、簡単に言えば、人間が経験的に認識できる「現象」に対して、決して認識し得ない「本体」のことを言う。
 
人間が思惟(しい)し得る理念の次元を超え、感覚を刺激する外界をあるがままに認識することができないが、経験の背後にあり、それ自体は不可知であるものと考えて、「超越論的自由」の可能性が開く知的な秩序 ―― これが「物自体」である
 
その後、ドイツ観念論の発展の中で集中的に批判されるに至る。
 
思うに、人間の認識は、その認識可能にする、「情報群」という予備知識が息づいていることを前提とする。
 
哲学的に言えば、因果律に従わず、主観に依存しない「物自体」は認識できないから、法則性の希薄なランダムの状態にある「情報群」の中から私たちの「主観」が形成されていく。

「主観」のフィルターを通して経験したものが「世界」と出会い、交叉し、内的な自己運動を繋いでいくのである。
 
他者との言語的・非言語的コミュニケーションの累加が、たちの「主を構成し、「客観」と信じる「観」を作っていく
 
当然、この「観」の中に、多くのバイアスが詰まっている。
 
認知能力の脆弱性が、知らず知らずのうちに「先入観」を貯留し、いつしか、それ固定観念と化し、日常性の観念系の倉庫に保管されていくのである。
 
「主観」のフィルターなしに、人間は「世界」を認識できないのだ。
 
私たちは、バイアスが詰まった「主観」のフィルターによって「世界」を知り、外部状況の渦の中の「情報群」から特定の情報のみ選択し、それに注意を向ける「選択的注意」の心理学(「カクテルパーティ効果」)で得た情報を特化し、自分都合のいいように濾過(ろか)しつつ、「観」に束ねられていく
 
この「観」の束「先入観」総体である。
 
だから、自らを囲繞する不都合で、未知なる〈状況性〉に「適応」することが求められるのは必至である。
 
多くの場合、この「適応」が妥当性に欠ける評価をもたらしながらも、同時に、効率的で、有効性を保証すると信じ得るので、「先入観」が払拭されることがないだろう。
 
ここで私は、ピーター・ドラッカーの名言を想起する。
 
ドイツ系ユダヤ人で、米国の経営学者・ドラッカーは、「効率とは物事を正しく行うことで、有効性とは正しいことを行うことである」と言っている。
 
まさに、「物事を正しく行う」に足る「効率」を信じ、「正しいことを行う」が故に、「有効性」に対し、私たちは疑うことをしないのだ。
 
「先入観」によって、人間は未知なる〈状況性〉への「適応」を可能にしているのである。
 
この時点で、「観」を集合させた「先入観」が、未知なる〈状況性〉への「適応」を自壊させない限り、私たちの「情報群」のうちに収斂された「観」の束は延長されると言うべきか。
 
経験の背後にあって、「超越論的自由」の可能性が開く知的な秩序 ―― カント流の「物自体」は、「先入観」を無化する怖さを希釈するための、未知なる〈状況性〉への「適応」を可能にする人間基本戦略なのだろう。
 
未知なる〈状況性〉への「適応」という深い意味を持つが故に、間は「先入観」なしでは、生きていけないのだ。
 
 
以下、このテーマを敷衍(ふえん)して、心理学の興味深い実験について考えてみたい。
 


心の風景 「先入観」の心理学」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/09/blog-post_30.html