LGBTという、押し込められた負の記号を突き抜ける肯定的な自己表現

イメージ 1


1  カミングアウトを不要とする社会を、いかに実現するか ―― 所感として

 
 
LGBTについて、今、ようやく一般的な理解が進みつつある。
 
様々な啓発本が出版され、LGBTの人権問題を解消し、社会的包摂(ほうせつ)の立法化が進む国際的潮流に呑み込まれるように、政府・自民党も2016年に勉強会を立ち上げ、超党派議員立法への動きも生まれている。
 
その一方で、相変わらず、LGBTへの誤解や無理解から、ヘイトスピーチ紛(まが)いの、心ない差別的な言辞がSNS上で連射されている。
 
大手メディアも、不用意な発言や不適切な対応によって、看過できない失態を露呈しているから厄介だった。
 
我が国の立法府で、「人権三法」(障害者差別解消法・ヘイトスピーチ解消法・部落差別解消法)が制定した昨今、差別解消を担うべき政権与党の国会議員もまた、確とした理解に及んでいない由々しき事態が剔抉(てっけつ)され、LGBTの問題が想像以上に深刻である印象をもたらしている。
 
要は、日本でのLGBTへの理解の取り組みは緒(ちょ)に就(つ)いたばかりで、概念理解の不正確さが加速的に膨張し、サイバーカスケードの如く氾濫(はんらん)し、拡散されている実状に終わりが見えにくい。
 
元々、LGBTという概念に馴染みがなく、その中枢的理解が及ばない人たちをインボルブし、初発の印象が、その後の判断に影響を及ぼす「アンカリング効果」によって固着した情報が定点を希薄化し、バイアスに塗(まみ)れた空気の拡散が不可視のゾーンを広げていく。
 
また、「性同一性障害」に関しても、2003年には特例法が作られ、ドラマにも取り上げられるなど、すでに耳慣れた言葉であった。
 
それが、今なぜ、LGBTなのか。
 
国際社会の波動がじわじわと広がり、押し寄せてきて、初めから人権問題の衣裳を纏(まと)って漂動(ひょうどう)する本体が社会的に受容され、言語を絶する暴力的差別から、法的な枠組みで守られる必要に迫られているからである。
 
その本質が人権問題であるにも拘らず、これまで、日本社会は寛容で、理不尽な差別を否定してきたと信じたい人たちや、その存在を、単なる「性的嗜好」という個人的趣味の問題として退(しりぞ)けたい人たち、或いは、セクシュアル・マイノリティの問題が取り上げられることを奇貸として、政治的ポジションの表明として便乗したい人たちにとっても、程度の差こそあれ、その中枢的理解を精査する必要に迫られていることには変わりがない。
 
なぜなら、この問題もまた、エリア外との互換性を失ったガラパゴス状態で、政治的ポジションからの恣意的な理解で鎮(しず)めていて、問題を曖昧に暈(ぼか)しつつ、医療のフィールドに押し込め、社会的に組み込む法的・教育的アプローチによる差別解消の作業を怠ってきたからである。
 
それは、女性差別問題がそうであるように、極めて無自覚に処理されるから、当事者に差別意識が希薄で、それを許容してしまう社会的な意識が根強いため、深刻な人権問題として焦点化されにくく、放置されてきたという経緯から見ても、問題の在り処(ありか)を見失うことなく、どう取り組むべきかの方向性の継続的な確保について、何の保証もないからだ。
 
何より、無知による偏見は相変わらずで、中には知ろうともせず、自己基準と古い常識だけで判断しようとする一群の存在があるから厄介だった。
 
それは、表面化しないだけで、ある部分では共有されている保守的な認識でもある。
 
それを払拭するには、知ろうとしても、その機会に恵まれていない人たちが知るべきものとして、私はあえて、LGBTの生物学的基盤について、しっかり認識することからスタートすべきと考えている。
 
所感的に言えば、LGBTに関する自民党の「性的指向・性同一性(性自認)に関するQ&A」には、「政権与党の責任政党」として、想像以上にLGBTへの理解が客観的且つ、的確に書かれていて驚かされた。
 
しかし、「伝統的な家族制度」を維持するという「保守」の立場が優先され、LGBTを含むセクシュアル・マイノリティの当事者たちが直面する、社会生活での様々な要求に応え得る、法的枠組みを整える方策には極めて消極的であると思われる。
 
伝統的な家族制度と、LGBTの人たちの社会的権利を認めることとの整合性について、議論を避けているのではないだろか。
 
だからこそ、自民党の掲げる方策は理解の増進に留まっているのである。
 
それ自体は、社会全体に求められる重要課題であるが、法的に一歩踏み込んでいかない限り、社会的認識や差別解消に向けた実質的変化が起きるとは考えにくい。
 
カミングアウトを不要とする社会を、いかに実現するか、理解の増進だけで、自然にそういう社会に変えることができるのか。
 
あまりにも政策的方略が乏しく、説得力がなさ過ぎる。
 
真に、LGBTを含むセクシュアル・マイノリティの当事者たちの差別解消に取り組むならば、同性婚やパートナーシップの問題を、憲法24条を含めて、関連する法的不備についての議論は不可欠である。
 
それを避けている限り、国際的潮流になっている理解増進の流れに追いついていけないだろう。
 

 
2  「セクシュアリティ」とは何か

 
 
セクシュアリティ」とは、〈性〉に関わる個人の中核的特質の一つを指す概念である。
 
言うまでもなく、個人の〈性〉は当該個人に属するものであり、家族ばかりか、社会から強要されたり、押しつけられたりするものではないという認識が世界的に高まっている。
 

しかし、この世界的な高まりは、どこまでも現在進行形で、各種メディアの無知・無理解の現実に集中的に表現されているように、我が国を含めて、誤解・偏見・蔑視・アウティング(特定他者の「性的指向」を暴露すること)が渦を巻き、国家権力によっても決して侵されない基本的、且つ、普遍的権利=「人権」の問題として正しく認知されることなく、「セクシュアル・マイノリティ」(性的少数者)という名の、押し込められた概念を超え、6色構成(赤・橙・黄・緑・青・紫)のレインボーフラッグに象徴されるように、肯定的・能動的なアサーション(自己表現)の所産としてのLGBTに対して、「病気」・「変態」・「嗜好」(しこう)等々、という世俗的な決めつけが横行し、多くの場合、エビデンス無視の感覚的なラベリングが特定他者のプライバシーを切り裂き、攻撃的な包囲網を巡らせているのだ。

 
また、個人の「性的指向」(人間の根本的な性傾向)が生まれながらのものであるのに拘らず、当該個人の「性的指向」を「医療的処置」で変更しようとする手術が、主に家族の要請で行われている。
 
これを「性別適合手術」と言う。 
 
そして、「性同一性障害特例法」。
 
性別適合手術」も医学的且つ、法的に適正な治療として実施されるようになっている「特例法」が、「性同一性障害」について、政権与党・自由民主党の議員が殆ど無理解の状態の只中で、2003年7月に成立するに至った。
 
後述するが、この「特例法」の存在が、世界の潮流に周回遅れの状態と化している現実を私たちは知らねばならない。
 
―― 議論が先走ってしまったが、ここで「セクシュアリティ」の問題に戻したい。
 
1999年8月、「性の権利宣言」(セクシュアル・ライツ宣言)という重要な宣言が、香港発・第14回「世界性科学会議」で採択された。
 
11項目からなる性的フィールドにおける基本的人権の表現なので、以下、Wikipediaから主な権利を引用する。
 
「性的自由への権利」(個人の性的なポテンシャルの全てを表現する自由)・「性の自己決定権」(苦痛から解放され、自らの肉体をコントロールして楽しむ権利)・「性的プライバシーへの権利」(個人の意思・行動の保障)・「性の平等への権利」(いかなる差別からの解放)・「性の喜びへの権利」・「自由な性的関係への権利」(責任ある性的関係を結ぶ、または結ばない自由)・「自由かつ責任ある生殖に関する選択の権利」(子供を何人、どのくらいの間隔で持つか、または持たないかについて決定する権利)・「包括的なセクシュアリティ教育への権利」(セクシュアリティ教育がライフサイクル全体にわたり、すべての社会制度を巻き込んで行われる過程であること)。
  
まさに、すべての社会制度を巻き込んだ、「包括的なセクシュアリティ教育への権利」という表現に代表される、「性の権利宣言」に相応しい、人間の〈性〉に関わる堂々たる権利宣言である。
 
要するに、「セクシュアリティ」とは、私たち人間の一人一人の「個」=人格に不可欠な要素である、というマニフェストなのである。
 
従って、「セクシュアリティ」は、単に、性的な事象を包括的に示す意味であるばかりか、「個人の人格の一部であり、他者から強制されたり、奪われたりするものではない」という明白な権利意識を内包しつつ、生殖・健康・快楽など、多様な位相を具備している人間の〈性〉の行動様態の総体であり、「個」のアイデンティティの基盤であると言っていい。 
 


心の風景 LGBTという、押し込められた負の記号を突き抜ける肯定的な自己表現」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/09/blog-post.html