「現代版村八分」 ―― その人権侵害の破壊力

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1  「不浄感」を沁み込ませた「異物」に対する排斥行為 ―― 「村八分」とは何なのか
 
 
ルール違反の特定他者を「仲間」として受容せず、「余所者」(よそもの)として排斥(はいせき)する行為 ―― これ、村落などの地域社会で行われたら、通常、「村八分」という概念で説明されるが、現在、放送自粛用語になっている
 
放送自粛用語になっている理由は不分明だが、「村八分」が本質的に「虐(いじ)め」の構造と同義だから、「村八分」「村八」(むらはち)という言葉に簡略化され、小中学校などでゲーム化(「村八」ゲーム)される事態を防ぐ配慮であると思われる。
 
しかし、それが、ゲーム化される事態への配慮だとしても、動画配信サイトで観る限り、お笑い芸人などを酷使しての、下品で救いようがなく、低レベルとしか思えないバラエティー番組を粗製濫造(そせいらんぞう)する、地上波テレビ番組・ネットテレビでの内容の酷(ひど)さは、殆ど「村八」ゲームと変わらない、「虐め」の構造と同質であると言っていい。
放送自粛用語の形骸化。
 
これはもう情報価値を失ったコンテンツがばら撒かれているだけの、「テレビの死」予約するだろう。
 
「虐め」の構造と同質な「村八」ゲームが、インモラルな「ブーム」になったとすれば、地上波テレビ番組・ネットテレビに集中的に現出されているように、この国の能天気な大人たちが製造元になっていることが判然とする。
 
能天気な大人たちが無自覚に発信する、数多(あまた)の情報に詰め込まれた毒素が次世代に継承されていくのだ。
 
つらつら考えてみるに、歴史の向こうに等閑(なおざり)にし、自然消滅したと決めつけている「村八分」の破壊力の凄みに、私たちはあまりに鈍感になっていないだろうか。
 
近代以降、統治機構国民国家は、「村八分」を明らか人権侵害とて認知し、時には、「2年以下の懲役、又は30万円以下の罰金」(刑法第222条)処せられる「脅迫罪」の成立要件となっている。
 
なぜなら、「村八分」は特定他者の人格総体を蔑視・慢侮(まんぶ)し、極端に名誉を侵害する排斥行為であるからだ。
 
地域社会のベースで、特定他者の排斥行為が猖獗(しょうけつ)を極めとき、「村八分」の本質は「共同絶交」(法律上の概念)になる。
 
この「共同絶交」の怖さには、しばしば、「虐め」の範疇をも食い千切り、「掟」に背く者=「不浄感」を沁み込ませた「異物」に対する、終わりの見えない集団暴力の連射の風景が無残に曝(さら)される脅威が潜んでいる。
 
マッツミケルセン主演の、映画「偽りなき者」(トマス・ヴィンターベア監督)で描かれていたように、固有の治癒力という「特効薬」と、暴力的な「排除の論理」が諸刃の剣(もろはのつるぎ)になる怖さこそ、地域コミュニティが内懐(うちぶところ)に隠し込んでいる「自己免疫疾患」(攻勢主体の共同体をも打ち砕く能力)の高い毒素である。
 
 
固有の治癒力という「特効薬」を発揮する一方、コミュニティの暗黙の「掟」に背馳(はいち)する者や、外部侵入者を「特定敵対者」と見做(みな)し、徹底的に排除していくのだ。

コミュニティの構成員にとって、徹底的に排除していく一連の行為こそ、紛うことなく「絶対的正義」となる。
 
時にはヘドニズム(快楽主義)を隠し込み、殺意を剥(む)き出しにした破壊力で犠牲者を甚振(いたぶ)り、存分にハンティングしていくのである。
 
この異様な状況下では、極端に振れることで均衡を保持する、リスキーシフト(一人の時と打って変わって、集団内で過激な言動に振れること)の危うさが常態化されてしまうから厄介なのだ。
 
そのとき、「村八分」の毒素は爆発的共同絶交」に膨張する。
 
 
「セーレムで何が起こったか」でも書いたが、複数の少女たちによって、「魔女」とされた者たちが、冤罪を証明する術(すべ)もなく、19人が処刑台の露と消えていく歴史的実話・「セイラムの魔女狩り」のおぞましい風景は、「集団ヒステリー現象」のネガティブな炸裂でもあった。
 
 
この構図は、いつの時代でも、いずれの社会でも、普遍的な「真理」である
 
だから、「聖なるもの」である「我ら」が、「魔女」である「彼ら」を「人民裁判」の名によってく。
 
「人民裁判」の怖さが、主権国家の「法」に依拠しない「民衆法廷」によって、恣意的(しいてき)に、「魔女」である「彼ら」を集団的圧力で断罪し、裁き、物理的・精神的に抹殺る事態の本質について、私たちは確と(しかと)認知すべきである。
 
魔女」と決めつけられた者は言うまでもなく、「魔女」を名指しし、それを受けて名指しされた者を裁判にかけ、有罪にした挙句(あげく)、彼らを公開処刑した者に至るまで、その「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間を延長させていくプロセスの中で、告発者としての少女たちの証言を疑う心証を得たにも拘らず、狂気に満ちた「負のスパイラル」を止められなかったという現実の怖さ ―― それこそ、「セイラムの魔女狩り」の震撼すべき事態であった。
 
裁く者も裁かれる者も、少女たちの偽証を察知してもなお、「魔女裁判」を止められない状況の凄惨さ。
 
裁く者は権力の維持に拘泥し、そこに関与する牧師たちも自己保身に雪崩(なだ)れ込んでいく。
 
殆ど誰一人、理性的判断をすることが叶わなかった絶望的な状況下で、絶望的な闘いを強いられる者たちの凄惨な内的状況。
 
人間はこんなとき、何ができるのか。
 
生存・適応戦略の中枢である自我の機能が、殆どブラックアウトと化したとき、それでも人間には、その閉塞状況を穿(うが)つ覚悟の一撃がどこまで可能なのか。
 
「集団ヒステリー現象」の渦中において、如何に人間は無力で、脆弱であることか。
 
時に、激発的な「村八分」もまた、「人民裁判」の怖さを内包する。
 
「集団ヒステリー現象」のネガティブな炸裂の中で、「爆発的共同絶交」の破壊力止まらない。
 
止まることのない破壊力によって、特定他者への排斥行為が猖獗(しょうけつ)を極めていくのである。
 
 
この「大人版」が、次世代にまで繋がっていくのだ。
 
 
―― 以下、狂気に満ちた「負のスパイラル」を誰も止められなかった「セイラムの魔女狩り」と切れ、「不浄感」を沁み込ませた、「異物」に対する排斥行為・「現代版村八分」の人権侵害の破壊力にテーマを絞って言及していく。
 


時代の風景  「「現代版村八分」 ―― その人権侵害の破壊力」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2018/10/blog-post.html