さらば、わが愛 覇王別姫('93) チェン・カイコー <人間の脆弱さの裸形の様を描き切った映像の凄味>

  「主張する者」の意志を捨て、「糾弾する者」と化したかのように、蝶衣は菊仙の方に向かって進み出で、攻撃の矛先を広げていく。

  「この女に出会ったのが、お前の運のつき。それで、全てが終わった!今は、天罰がお前に下ったのだ・・・僕らは自ら、この運命に嵌り込んだのだ。因果応報だ。僕は恥ずべき人間だ。覇王も跪(ひざまず)いて命乞い。ここまで汚された京劇は滅びる外ない!」

  「ここまで汚された京劇は滅びる外ない!」という言葉の圧倒的な重量感。

  この思いこそ、蝶衣の全てなのだ。

  ここで、「糾弾する者」と化した紅衛兵に捕捉された蝶衣は、それを振り払って、今度は菊仙の過去を暴き出していく。

  「あの女の正体を知っているか?春を売っていた淫売だ!・・・吊るし上げるがいい!あの女を殺せ!あの女を殺せ!」

  この言葉を受けて、紅衛兵は小婁に確認した。

  「今の話は本当か?」

  そこに僅かの時間の隙間ができたが、小婁は小声で反応した。

  「本当だ」

  紅衛兵は、小婁に畳み掛ける。

  「愛しているのか?」

  ここで小婁は、その意志を鮮明にした。

  「愛してなどいない・・・本当だ。愛していない。誰が、あんな女を!もう縁を切る!」

  それは、それ以外に自分の身を守る術がないと判断した男の、完全屈服を晒す防衛言語だった。

  人間は、ここまで防衛的に動くのだ。

  ここまで誇りを捨てられるのだ。ここまで醜態を晒せるのだ。

  燎原の火と化した文革の理不尽な暴力の只中で、男は「弟」を裏切り、妻を裏切った。

  裏切られた「弟」は、自分の愛情対象を奪った女が「娼婦」であった過去を、紅衛兵に向かって暴露した挙句、「殺せ!」と叫んだのだ。

  夫が捨てた、「覇王別姫」の宝剣を拾い上げる勇気を見せながらも、二人の男に裏切られた女は、他の多くの犠牲者がそうであった現実をなぞるように、縊首するに至ったのである。

  裏切られた女は、打ちひしがれている蝶衣に、項羽の宝剣を戻した後、縊首したが、映像は裏切った夫の失意と、蝶衣の絶叫を映すだけだった。

  それにしても、本作で描かれた「裏切りの連鎖」という現実を醜いまでに晒して見せた者たちの悲哀に、胸が詰まる思いだ。

  その「醜悪」な現実を、容赦なく炙り出した悲哀の根柢にあるもの。
  中国現代史の、言語を絶するほどの暴走・迷走という否定し難い現実以外ではないだろう。

  かつて紅衛兵だった作り手の無念の感情の結晶が、明らかに紅衛兵を生みだした文革という名の狂気への批判という形で、観る者を激しく揺さぶる人間ドラマの極限の様態の内に結ばれたのである。

 人間の脆弱さの裸形の様を、ここまで描き切った映像の凄味に感嘆する思いである。

 
(人生論的映画評論/「さらば、わが愛 覇王別姫('93) チェン・カイコー  <人間の脆弱さの裸形の様を描き切った映像の凄味>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2010/03/93.html