しゃべれども しゃべれども('07)  平山秀幸  <「ラインの攻防」 ―― 或いは、「伏兵の一撃」>

  底を抜けていくほどの何かを必要としたとき、まさに最適のタイミングで、「銃後の手習い」としての「落語教室」が立ち上げられたのである。

  しかし、「芸」の「質」の内的向上を求める男の精神世界の振れ方と、軌を一にするように立ち上げられた「落語教室」の存在感が、少しずつ変容していくときの手応えによって、男の中で経験的に学習できた意味を真に内化していくには、「落語教室」に対する自覚的な継続力を不可避としたはずなのだが、それを欠如させた男には、なお多くの経験知の累加が求められていたと言えるだろう。

  然るに、その貴重な教室の中断を想念させた男の内側には、女が身体表現する外形的なイメージラインに捕縛され過ぎていたのである。女もまた、何かいつも肝心な所になると、感情を拡散させる男のネガティブな心理の文脈が測り切れないでいた。

  かくて二人は、「プライド防衛ライン」の攻防を延長させてしまったのである。

  この二人は、自分の感情を相手に上手に伝えられない不器用さという点では共通しているが、相手の男にプロとしての強力な向上心を感じ取っていく中で、この男が自分に内在する小さなトラウマと化した対異性観の範疇に当て嵌まらない、ある種の骨太の精神を保持し、同時に、ほおずきを贈る優しさを持つ人格の主であるという把握を持つに至りながらも、上述したように、自我防衛の過剰な女はラインの攻防を継続させてしまったのだ。

  相手の人格に見る希少性の発見こそ、何より代えがたいものであることが実感し得たに違いないのだが、しかしそのことが、却って二人のスタンスを最近接させる上で一つの障壁になってしまったのである。

  それでも女は、彼が演じた「火焔太鼓」を自分の演目にしたという行動選択に現れているように、自分の内側に大きな風穴を開ける勇気を捨てていなかった。

  恐らく、彼女は単に、「会話力の獲得」を学習するためだけに「落語教室」に通って来たのではない。自分の青春の現在をネガティブに捉える発想からの突破口の契機として、教室という特定的空間が選択されたのであり、そこでの小さな関係の構築によって、少しでも自分の現在の時間を動かしたいという願望が、その根柢において深々と横臥(おうが)していたのである。

  そして、その感情を最終的に束ねたとき、「火焔太鼓」を演じ切った女の中で何かが弾け、何かが大きく動き出していったのだ。この変容の決定力が、ラインの攻防を継続させてきた固有の時間のバリアを壊しにかかっていった。

  ラストシーンの意味は、ラインの攻防というゲームの終焉を映し出したものであって、映像の軟着点が、もうそこにしか向かえない必然性を、それ以外に考えられないイメージラインの内に検証したのである。

  やはり、この国の女は強かった。
 
 
(人生論的映画評論/「しゃべれども しゃべれども('07)  平山秀幸  <「ラインの攻防」 ―― 或いは、「伏兵の一撃」>」より抜粋)http://zilge.blogspot.com/2009/08/07_27.html