人間の約束('86) 吉田喜重 <「神の手」が乗せられたとき>

  亮作が手にしたタオルが、タツの顔を押さえにかかった。

  「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう・・・」

 それは、死への旅路へのカウントダウンのはずだった。

  しかし、亮作の手には充分な力が乗り移っていかない。彼の手は震え、もう一方の手を重ねるが、それでも全身の力がそこに加わっていけないのだ。

  亮作の眼に、仏壇の上に飾られた二つの写真が捉えられた。それは、戦死した息子たちの肖像写真だった。亮作の手が鈍り、遂に彼はその手を離してしまったのである。

  亮作の目頭に冷たいものが滲み出ていて、それが流れていくラインを見定めたように、黒ずんだ皮膚を濡らしていった。

  「駄目だ、おらにはできねぇ」

  確信犯を決意した老人は、その確信的行為にまたもや頓挫した。

  そこだけが孤立しているような離れの屋根を、激しく叩きつけていた雨はいつしか小降りになっていた。

  暦を一枚めくっただけの、依志男の帰宅。

  しかしこの日は少し違った。

  玄関のチャイムを鳴らすことなく、鍵を取り出し、扉を開けた。そのまま二階に上らずに、離れの部屋の襖を静かに開けたのである。

  依志男がそこで見たものは、あってはならない光景だった。

  母タツが布団から這い出して、枕元に置かれた金盥に、その小さな体を地虫のように寄せている。

  依志男は全てを理解した。死を願うタツの意志が、これほどまでに堅固であることを。

  隣の部屋では、父が寝息を立てていた。依志男は動けない。

  あの母の耳元での囁きが、彼の脳裏に焼き付いている。或いは、母の願いを叶える意志を固めて、依志男は離れに忍び入ったとも考えられる。

  タツは自ら、金盥にその皺だらけの顔を沈めた。

  亮作の手で果たせなかった「約束」を、今や自らの手で完遂しようとしている。

  タツの自我は壊れ切っていないのだ。壊れ切っていないからこそ、意を決して自死に向かっているのである。

  依志男は母に近づくが、それを傍観する者に、なお留まっている。

  タツは苦しくなって、金盥から顔を上げた。水面の向うにある死に、タツはなかなか辿り着けない。依志男の気配を察したタツは誘(いざな)うように何か呟いて、再び水面に顔を沈めた。依志男はもう逃げられない。それまでの迷いが吹っ切れたかのように、そこで展開されている禁断の事態に踏み込んでいくのである。

  母の後頭部にそっと手を添えて、そこに触れたものに自らの意志を伝えたのだ。

  恐らくその手に、下からの小さな抵抗が伝わってきたに違いない。それでも息子は、その手を離せない。離してはならないのだ。それを離したら、もっと大きな不幸がその後に待っている。

  だから、息子はこの瞬間だけは、ようやく固めた意志を砕こうとしなかった。そこに流れた時間の長さは永遠のようでもあり、それが存在しなかったと思えるような短い時間のようでもあっただろう。

  確かなのは、そこに動かなくなった母がいて、動かなくなったものを見つめる自分がいたということだ。しかしそれも幻想であったかも知れないのである。 そういうイメージが観る者に伝わってくるような静謐(せいひつ)な描写だった。

  「約束」を果たした依志男は、隣の部屋で眠る父を確認したつもりだったが、父の眼は見開かれていたようにも見えた。父は何もかも了解しているのだ。息子はそう感じとったのだろうか。

  依志男は離れを後にして、階段を上っていく。

  突然、内側から何かが突き上げてきて、彼はその場に膝まづき、激しく嗚咽した。煩悶を噴出すようなその嗚咽は、再び激しさを増した雨の音に吸収されてしまった。


(人生論的映画評論/「人間の約束('86) 吉田喜重  <「神の手」が乗せられたとき>」より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/86.html