七人の侍('54) 黒澤 明 <黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画>

 この映画から、私が受け取った感懐の二つ目。 

 それは、本作が集団を描いたドラマでありながら、それぞれの人物描写が細密に描かれていて、人間ドラマとしての完成の域に達している部分を内包しているということである。しかし残念ながら、それぞれの人物描写は些か類型化されていて、その辺りの作り物性が正直、気になってしまうのである。
 
 例えば、菊千代のラストに流れる哀切を強調するためにか、そのキャラクターの過剰なる「剽軽(ひょうきん)」さは、しばしば観る者に目障りな印象を残したと言える。

 そして勝四郎は、その典型的な「純粋無垢」なる青春を青臭く駆け抜けて行った。

 またリーダー格の勘兵衛は、その強靭な指導力と「潔癖な人格性」に於いて抜きん出ていた。

 更に、侍たちの格好良さを独り占めした感がある久蔵は、ニヒリズムの内側に甘美なヒューマニズムが同居する、「求道者」然とした道修行の徒という美味しい役割を表現し切っていて、その人格に張り付けられた美徳こそ、最も日本人受けする「寡黙なる清冽」さであったに違いない。本作を初めて観た者の多くが、久蔵に計り知れない魅力を感じたのも宜(むべ)なるかなである。

 因みに、久蔵を演じた宮口精二は、私の印象から言えば、成瀬巳喜男の「流れる」に於ける“鋸山”(自分の姪を出しにして金を集る男)の役どころが鮮明過ぎるので、どうしても「格好良さ」のイメージとは縁遠いのである。

 ついでに言えば、スーパーマンの勘兵衛を演じた志村喬は、同じ成瀬の「あらくれ」という作品では、金持ちの助平親父の役どころで、また「包容力」のある七郎次を演じた加東大介は、やはり成瀬作品では、その役どころの殆どが駄目親父か、詐欺師か助平親父、良くてもせいぜいブローカーといったところか。余計なことだった。

 しかし、このような名バイプレーヤーたちは、本作の中ではそれぞれに高潔な役どころを得て、それぞれなりの微妙な個性の役割分担を演じ分けていたのである。

 しかし、私にはそれがどうしても気になるのだ。

 「七人の侍」を私なりのキャラクター・レッテルで分けていけば、それぞれ、「潔癖な人格性」、「剽軽」、「純粋無垢」、「寡黙なる清冽」、「包容力」、「明朗闊達(かったつ)」(平八)、「誠実」(五郎兵衛)というような類型性をなぞっていたのである。あまりに綺麗に役割分担された性格の類型化が、私の中で無視し難い印象を持ってしまったということである。
 


 17  「七人の聖戦士」に象徴される、善悪二元論的人物類型化の安直性



 そして、何より気になったのは、この「七人の侍」が私欲を動機にしていないところである。彼らはまさに、「七人の聖戦士」だった。勿論、勘兵衛がその辺の動機を基準して、仲間を選択的に選んだ節(ふし)がある。それは理解できる。

 繰り返すようだが、この時代に、白飯を食わせてもらうという理由のみで、農民のために命を預けることを決断する侍が果たして存在しただろうか。仮に存在したとしても限定的であるに違いない。

 事実、橋本忍が手に入れた資料は、稀有な例証であったと思われる。

 その辺が娯楽時代劇の制約であることは理解できるが、しかし、それにしてもそれぞれに異なった個性の侍を描き分けたにも拘らず、そこに一片の私欲が媒介されないのは不自然なのでである。

 例えば、野武士と戦う名目で村に入った侍の中に、その村が貯えている穀物を横取りしたり、女を漁ることを目的としたり、野武士と通じる意図を持った侍がいたとしてもおかしくないのだ。

 ここで描かれた六人はあまりに人格が優れていて、勝四郎に至っては、聖フランチェスコを髣髴(ほうふつ)させる純粋無垢そのものの青年武士である。一体この時代に、勝四郎のような若武者が戦国浪人として徘徊するリアリティが検証できるのだろうか。もっとドロドロした関係模様が、菊千代を除く六人の中にあっていいのではないか。

 つまり、七人とは一対六であって、「菊千代とそれ以外の六人」という対立図式ということになる。菊千代は、侍と農民を繋ぐ接着剤としての決定的役割を負わされているから、当然、彼のキャラクターの内に農民としての生活臭を大いに含ませる必要があった。それであのような特異なキャラクターを造型したと思われるのだ。

 それでも彼らは、「七人の聖なる戦士」であった。

 そして彼らに敵対する野伏せりの集団は、「私欲のために農民をいたぶり、殺戮する大いなる悪党」であった。

 従って、当然の如く、悪党たちには特別なキャラクター設定は不要であった。彼らは単なる悪人であって、「七人の聖なる戦士」と「甚振(いたぶ)られる農民」たちによって退治されねばならない何者かであって、それ以外ではなかったのだ。悪党たちの中に、少しでも農民に同情を寄せる者を描く必要がなかったと言うのだろう。

 私はこの辺に、黒澤映画の善悪二元論的人物類型化の性格が透けて見えるのである。そしてその性格が、彼の映像を通して極めて声高に、且つ、堂々と吐き出されてくるから、私には今一つ、この巨匠の作品群に馴染みにくいものを感じてしまうのである。

 以上の二点について、「七人の侍」への現在の私の正直な感懐について言及してきた。なぜこんな言及をしたかと言えば、多くの人が殆ど無前提に、本作を賞賛して止まない声が引きも切らないからである。

 それは私には、本作が、「世界映画史上のベストワンに値する作品であると同時に、多くの映画人に決定的な影響を与えた原点的な名作」というような評価が定着し、その評価が離れ難い先入観となって、本作と付き合うスタイルが既に確立されているように思えるからである。

 そこに「世界のクロサワ」がいて、その「クロサワ」が作った最高傑作がここにある。この過分な思い入れが、映像の激しさと凄まじいリアリズムの内に収斂(しゅうれん)されてしまうのではないか。それが気になるのだ。

 しかしそれにも拘らず、私は以上述べたような不満を抱きつつも、「七人の侍」という作品の秀逸さを賞賛することに吝(やぶさ)かではない。

 確かにこの作品は、「七人の聖なる戦士」の物語であったが、その物語自体が存分に満喫できる内容を含んでいたのは否めない。優れた時代考証による、当時の農村の厳しい現実を映し出してもいたのである。

 
(人生論的映画評論/ 七人の侍('54) 黒澤 明 <黒澤明の、黒澤明による、黒澤明のための映画>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/54.html