ハンナとその姉妹('86) ウディ・アレン <えも言われぬ滑稽が醸し出す空気感>

  国境による隔たりがあっても、人間がそれぞれ固有の人生の中で迷い、悩み、傷つく問題には、それに対する対処法において、文化的且つ個人的差異が認められるだろうが、「愛」、「性」、「健康」、「家族」、「不倫」等々と言った問題が抱える普遍性の中では、大同小異でしかないという真実を示唆する一篇でもあった。

 その問題意識によってのみ、本稿を進めたい。

 その例証の中で最も興味深かったのは、ハンナの夫エリオットが、妻の妹である三女のリーに恋愛感情を抱いた末に開いた行動様態である。

 エリオットがリーとの間で既成化されていた、義理の関係の形式性を突き抜けて、相互に特定化された禁断の不倫関係にまで発展してしまうとき、その特殊な関係を開いていくプロセスはコメディの文脈の内に支配されながらも、心理学的に見れば、古今東西に類を同じくする包括性の中で説明できる何かであった。

 まず、義理の関係の形式性を突き抜ける契機がある。

 これは、「この切なさ、自分でも嫌になるよ。彼女が自分の前を通ったとき、危うく僕は気絶しそうになった」という感情が沸点に乗り上げるほど、妻の妹に強く思いを寄せるエリオットが仕掛けた、子供じみた「出会い」という最初の階梯が人為的に作られた。

 エリオットは、リーとの偶然の出会いを装うために街の中を走り回った末に、計算尽くの出会いに成功したのである。

 男は女を本屋へ誘い、そこでカミングス(アメリカの現代詩人)の詩集を購買し、112ページを読むことを勧めた。そこに書かれたロマンチックなポエムのフレーズに自分の思いを寄せたのだ。

“あなたの何気ない視線で
 閉じた私が開かれていく
 一枚一枚 花びらをめくるように
 まるで春がしなやかに
 秘めやかに
 バラを開くように
 私を開かせる
 あなたのすべては何だろう
 ただ私にわかることは
 バラよりも深いあなたの瞳と
 雨よりも優しく
 触れるその手を“

 かなり気障な手法だが、それは、ポエムのフレーズに反応すると信じた男の考え抜かれた末の、恋のマニュアルの手口であった。

 バッハの「チェンバロ協奏曲第5番ヘ短調」の調べに溶け込むようにして、それを読むリーの心には、明らかに求めるものと出会ったときの小さな快感が生まれていた。

 因みに、彼女は融通の利かない頑固な中年画家と同棲していて、自分だけに心を開く男の独占感情に窒息しそうな日常性を送っていたのである。

 そんな中で出会った男の積極果敢なアプローチに彼女が反応したのは、彼女の中で自らの自我を解放させる契機を求める何かが存在したのだろう。

 中年画家と同棲する若いリーの家に、絵画の蒐集家を伴って、エリオットは直接的で大胆な攻勢に打って出た。

 彼女の同棲相手が束の間、部屋を留守にしている間、男は女に仕掛ける果敢なアプローチの処方で迷っていたのだ。

 “彼女にキスしたいが、微妙な状況だから細心の注意が必要だ。まず明日の昼食に誘ってみよう。断られたときの対応も考えて。これには高度の技術が必要だ”

 自分の欲望の突沸を恐れ、男は必死に恋の戦略を練った。

 そんな心の声とは裏腹に、カミングスの詩集を手に取って、彼女が自分に接近してきた絶好のタイミングが男の情動を突き上げて、男は咄嗟に彼女にキスしたのである。

 「前から愛していたんだ」

 この唐突の告白もまた、男の恋の戦略を前倒しにした欲望の突沸の結果である。

 男は最初の攻勢で、一気に恋の冒険のステップを駆け上ってしまったのである。

 思えば、集団の中で形成された沸騰状況で、理性的文脈が情動系に左右されやすくなる心理現象をリスキーシフト(注)というが、多くの人間の行動傾向を仔細に観察していくと、集団心理学の問題とは無縁でも、そこに形成された状況次第で、情動系が理性的文脈を抑え込んでしまって、呆気なく、このような振舞いに走るという現象は日常的に見られるところである。

 それは、国境による隔たりを越えた、人間の問題が抱える普遍的な行動文脈であると言えるだろう。


(注)普段は理性的に行動することができる人が、集団の中に入ることで極端な言動を行いやすくなる心理現象で、社会心理学の概念。


 ともあれ、この一件の後、エリオットは妻のハンナとの関係に隙間が作られつつあることを実感し、それを妻に指摘され、「もし僕に愛人がいると答えたら?」などと反応し、妻の自分に対する疑惑の程度を試したのである。

 しかし妻のハンナは、自分を疑う素振りの片鱗も見せなかった。

 “妻をいじめるのはよそう。正直に言うんだ。君の妹を愛している。仕方がなかったと。この際、正直な告白が必要だ”

 これが、男の心の声。

 「悩みがあるのなら、一緒に悩むわ」

 またもや、妻から助け船が出されてしまった。

 妻のハンナは、夫の態度のよそよそしさを実感していて、心のどこかで不倫への疑惑があったのも事実。そんな思いが、夫との「浮気問答」を生んだのである。

 更に言えば、エリオットのこの種の「反省と自戒」のモノローグの本質は、「妻を苦しめて悩む夫」というイメージラインで自己認知を固めることで、アンチモラルな振舞いに対する安直な贖罪を手に入れることが狙いなのだ。

 もっと言えば、「妻を苦しめて悩む夫」というイメージラインで自己認知を固めることによって、「アンチモラルな振舞いを冒す許し難き自己」と、「欲望の稜線を広げて、快楽を貪る時間の延長を求める自己」を対峙させ、安定した〈生〉の持続を保証しようと情報統制を図る自我が、自分を致命的に傷つけないように、前者のモラルを稀釈化させることが重要なのである。

 まさにそれこそ、人生の長きにわたる時間に〈技巧〉の導入を摂取して、自我の均衡性を安定的に構築した証左となるものだ。

 些か塵芥に塗(まみ)れているが、この類の〈技巧〉の導入の摂取なしに、常に不完全でしかない人間は、自分サイズの〈生〉を繋いでいくことは容易でないだろう。

 人間の狡猾な自我防衛機構の有りようは、その現出のパターンこそ違えども、当然の如く、国境による隔たりを越えたものである。

 それが恐らく、普通の人間の、普通の人生の、普通の自我の、普通の振舞いであり、言わずもがな、この類の行動様態もまた、人間の問題が抱える普遍的な行動文脈に含まれるものだろう。

 普通の人間の、普通の人生の、普通の振舞いであればこそ、そこに醸し出される滑稽感が、観る者の自我のサイズにフィットしたのである。


(人生論的映画評論/ ハンナとその姉妹('86) ウディ・アレン  <えも言われぬ滑稽が醸し出す空気感>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/12/86_15.html