人は死別による喪失感からの蘇生には、しばしばグリーフワーク(愛する者を失った悲嘆から回復するプロセス)を必要とせざるを得ないほどに記憶を解毒させるための時間を要するが、裏切り等による一時的な内部空洞感を埋める熱量は次々に澎湃(ほうはい)してきて、その熱量転換は困難ではない。
熱量転換が困難でないのは、愛情が憎悪感情にシフトしてしまうからだ。
しかしこれは、配偶者の裏切りのようなケースにこそ当て嵌まるのだが、恐怖感や不安感へのシフトの場合にも、熱量転換が部分的に可能である。
その典型的なケースとして、「人格変容」が上げられる。
自分の大切なパートナーがあるとき突然、或いは、じわじわと「人格変容」を露(あらわ)にしたとき、人はなお、その相手に愛情を持ち得るのだろうか。
例えば、覚醒剤(写真)の常用などで突然暴力を振るい出した夫に、妻はなお「共存感情」や「援助感情」を抱き続けられるか。
始めは困惑し、不安に駆られ、絶望感に打ちひしがれつつも、寄り添い、援助の手立てを模索するかも知れないが、それが常態化し、治癒される見込みがないと確信してしまったら、大抵の妻は、この関係から逃げ出したいと考えるようになるはずである。
不幸なる残されし妻の脳裏には、今や、自分の生存が脅かされているという凄惨な現実感が焼き付いて離れないだろう。
今、眼の前にいる夫は、かつての心優しき伴侶ではない。
凶暴なる暴力マシーン以外ではなく、もう共存できないのである。
助け合うことなど不可能なのだ。
夫の人格は変容してしまったのである。
眼の前の男は、全く別の見知らぬ他者であり、その男は私に夫として振舞おうとする。多くのことを一方的に命令して止まない。私は今、下僕に過ぎないのだ。これは到底絶えられるものではないであろう。
こうして妻の感情は、今、自分自身の生存に関わる恐怖感に満ちている。恐怖感もまた熱量になる。
同時に怒りの感情も、そこに澎湃(ほうはい)しているかも知れぬ。
これが恐怖感を抑制し、最強の熱量を作り出すことがある。
愛情という幻想は、こうして呆気なく壊れてしまうのだ。
夫を失うことの恐れよりも、今、妻は自分の生存を保障できない恐れの中にいて、妻は後者からの解放を第一義的に選択した。
妻はやがて事態の重みをひしひしと感じ取るかもしれないが、夫の「人格変容」という事実が変わらなければ、そこでの喪失感情は過去の範疇に属するものになるであろう。
夫の「人格変容」によって、妻の夫へのスタンスが根本的にシフトしてしまったのだ。
夫との愛情関係がリザーブしたままでの死別による喪失感とは、その辺が決定的に違うのである。
相手の「人格変容」は、人々の対人観を根こそぎ脱色し、別の色彩に塗り替えてしまうのである。
人間は詰まる所、相手の生身の人格を愛するのではなく、自らの自我に結んだ相手の人格像を愛でるのであり、イメージの力こそが愛情関係を貫く根幹であると言えるだろう。
愛も憎しみも、怒りも羨望も何もかも、自我が捉えたイメージのラインの中から噴き上がって来て、私たちはそのイメージの洪水の中を様々になぞっていく。
イメージを固める力はそれぞれに分かれるから、私たちはどこまで行っても、私たちの固有の人生テーマを負ってそれに悩み、それに翻弄され、しばしば、そのために落命を余儀なくされることにもなるのだ。
私たちの自我の内側に張りついたイメージの束が、私たちを大いに立ち上げたり、深々と抉(えぐ)り取っていったりするような多様な運命を様々に分けてしまうのである。
熱量転換が困難でないのは、愛情が憎悪感情にシフトしてしまうからだ。
しかしこれは、配偶者の裏切りのようなケースにこそ当て嵌まるのだが、恐怖感や不安感へのシフトの場合にも、熱量転換が部分的に可能である。
その典型的なケースとして、「人格変容」が上げられる。
自分の大切なパートナーがあるとき突然、或いは、じわじわと「人格変容」を露(あらわ)にしたとき、人はなお、その相手に愛情を持ち得るのだろうか。
例えば、覚醒剤(写真)の常用などで突然暴力を振るい出した夫に、妻はなお「共存感情」や「援助感情」を抱き続けられるか。
始めは困惑し、不安に駆られ、絶望感に打ちひしがれつつも、寄り添い、援助の手立てを模索するかも知れないが、それが常態化し、治癒される見込みがないと確信してしまったら、大抵の妻は、この関係から逃げ出したいと考えるようになるはずである。
不幸なる残されし妻の脳裏には、今や、自分の生存が脅かされているという凄惨な現実感が焼き付いて離れないだろう。
今、眼の前にいる夫は、かつての心優しき伴侶ではない。
凶暴なる暴力マシーン以外ではなく、もう共存できないのである。
助け合うことなど不可能なのだ。
夫の人格は変容してしまったのである。
眼の前の男は、全く別の見知らぬ他者であり、その男は私に夫として振舞おうとする。多くのことを一方的に命令して止まない。私は今、下僕に過ぎないのだ。これは到底絶えられるものではないであろう。
こうして妻の感情は、今、自分自身の生存に関わる恐怖感に満ちている。恐怖感もまた熱量になる。
同時に怒りの感情も、そこに澎湃(ほうはい)しているかも知れぬ。
これが恐怖感を抑制し、最強の熱量を作り出すことがある。
愛情という幻想は、こうして呆気なく壊れてしまうのだ。
夫を失うことの恐れよりも、今、妻は自分の生存を保障できない恐れの中にいて、妻は後者からの解放を第一義的に選択した。
妻はやがて事態の重みをひしひしと感じ取るかもしれないが、夫の「人格変容」という事実が変わらなければ、そこでの喪失感情は過去の範疇に属するものになるであろう。
夫の「人格変容」によって、妻の夫へのスタンスが根本的にシフトしてしまったのだ。
夫との愛情関係がリザーブしたままでの死別による喪失感とは、その辺が決定的に違うのである。
相手の「人格変容」は、人々の対人観を根こそぎ脱色し、別の色彩に塗り替えてしまうのである。
人間は詰まる所、相手の生身の人格を愛するのではなく、自らの自我に結んだ相手の人格像を愛でるのであり、イメージの力こそが愛情関係を貫く根幹であると言えるだろう。
愛も憎しみも、怒りも羨望も何もかも、自我が捉えたイメージのラインの中から噴き上がって来て、私たちはそのイメージの洪水の中を様々になぞっていく。
イメージを固める力はそれぞれに分かれるから、私たちはどこまで行っても、私たちの固有の人生テーマを負ってそれに悩み、それに翻弄され、しばしば、そのために落命を余儀なくされることにもなるのだ。
私たちの自我の内側に張りついたイメージの束が、私たちを大いに立ち上げたり、深々と抉(えぐ)り取っていったりするような多様な運命を様々に分けてしまうのである。
(「心の風景/人格変容 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_13.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)