スケアクロウ('73) ジェリー・シャッツバーグ <逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生>

 では、「アメリカン・ニューシネマ」(以下、「ニューシネマ」とする)は何からの逸脱だったのか。

 一つは、アメリカが「最も偉大で強大な国」であるという物語からの逸脱。もう一つは、驚くほど美貌なる男女が秩序を壊さない程度の恋愛ゲームを愉しんだり、健全極まるミュージカルで呆れるほど脳天気に踊り狂ったり、神の如きスーパーヒーローが拳銃片手に鬼退治を演じて見せたりという、物語の予定調和の括りに流れ込んでいくハリウッドの映画文法からの逸脱であった。

 それを端的に表現すれば、些か厄介な物語を背負い続け、それを執拗に映像表現の中で確認することを余儀なくされてきたかのような、「不文律と化した、一切の規範からの逸脱」であると言えないか。そう思うのだ。

 そんな物語を、執拗に映像表現に於いて鏤刻(るこく)してきたハリウッドの映画文法 ―― それは果たして、どのような内実を持ち得てきたのか。

 それを概念的に整理すれば、以下のような文脈になるだろうか。

 一、多面的な娯楽性(過剰な描写に流れない程度のエロ・グロ・ナンセンスのサービス精神)

 二、予定調和(ハッピーエンドか、それに近い括り方を見せることで、一定のカタルシスを保証)

 三、英雄主義(スーパーマンか、それに近いヒーロー、ヒロイン像を作り出しつつも、それを「描写のリアリズム=物語展開の非リアリズムをカバーするに足る、状況描写のリアリズム」によって巧みに固めていく)

 四、非ラディカリズム(主張の急進性、根源性、過剰性を限りなく中和化)

 五、社会的問題提起の均衡性(芸術性の高い作品や社会派的なテーマを映像化しても、それは必ず「気高きヒューマニズム」によって補完されること)


 何のことはない。

 ニューシネマの多くの映像群は、程度の差こそあれ、以上のハリウッド文法を根柢に於いて破砕するか、或いは、アイロニカルに揶揄することで、殆ど確信的に屠ろうとするムーブメントであったのだ。

 しかし残念ながら、この把握は多分に褒め殺しの謗りを免れないだろう。

 ごく一部の例外的な秀作を除けば、それらは多くの場合、倣岸なる理念系の暴走であるか、独善性の濃度の深い挑発的な表現であるか、そしてしばしば、程度の低いプロパガンダ・ムービーであったりしたのは否定し難い現実だった。時には溢れんばかりの情緒の洪水であったし、更に、呆れるほどに完成度の低い、脱規範的な映像マニフェストもどきでしかなかったとも思われるのである。



 序(2)  〈逸脱〉の向うに何があったか



 ―― 論を進める。

 
 では、〈逸脱〉の向うに何があるのか。

 結論から言えば、それはどうでも良かったのだ。

 逸脱し、ドラッグにのめり込み、自由なセックスを耽溺し、一切の秩序なるものを破壊すればそれで良かったのである。尖った時代の旋風に後押しされたそのアナーキーさに、「革命」という名のいかがわしい記号がべったりと貼り付けられた快感だけが騒いでいて、結局、映像前線に残ったのは、いま鑑賞してもその輝きを全く失わない僅かな秀作のみだった。
 
 例えば、それは「真夜中のカウボーイ」であり、「ジョニーは戦場に行った」であり、そしてこれから言及する「スケアクロウ」などである。

 これらの映像の主人公たちは、いずれも確信的逸脱者ではない。それ故に、彼らを待ち受けている運命は厳しく、切実だった。

 映像は、彼らのそれぞれの厳しい人生を真っ向勝負のように受け止めて、その内実を深々と、そして淡々とした筆致でリアルに映し出していた。ウィリアム・ワイラーに代表されるハリウッドの良心的映像の中に辛うじて継承されてきた、娯楽のみに流されない人間ドラマの真髄がそれらのニューシネマの中に繋がったのである。アメリカ映画はギリギリのところで壊されなかったのだ。



 1  “逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切った秀作



 「スケアクロウ」―― 紛う方なく、完璧な映画だった。

 この作品こそ、先述した「ごく一部の例外的な秀作」の中の究めつけの一作であった。
 それは、ニューシネマの最高到達点を示す記念碑的映画ではなかったか。少なくとも、私はそう思っている。

 ニューシネマの不必要なまでの濫作の中にあって、この映画だけが、“逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切ったのである。

 殆んど音楽に頼らず、感傷に流されることなく、余分な描写を削り抜いて到達した映像世界は、極めて純度の高い人間ドラマに結実したと言っていい。
 
 無論、主役となった二人の役者の群を抜いた演技力なしに、この作品の表現世界に於ける成功は叶わなかったかも知れない。確かに、アル・パチーノの演技は凄かったが、ライオン役をダスティン・ホフマンに替えても表現の質は落ちなかったかも知れない。しかし、マックス役のジーン・ハックマンに替わる俳優が、当時存在しただろうか。「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマンなくして、「強がって生きる孤独な男の哀切」をあれほどまでに表現できたであろうか。

 人は、自分の中にあって、自分が嫌う性格的部分を相手の中に見つけたとき、大抵その相手を嫌うものだ。そこに、友情は生まれない。そして人は、自分の中になくて、自分が求める性格的部分を相手の中に見るとき、恐らくその相手を好むだろう。そこに、友情が生まれる可能性が極めて高いのである。

 少し大袈裟に言えば、「異文化的」な二つの個性が偶発的に邂逅し、しばしば小さな摩擦を繰り返しながらも、本来的に逢着するであろう着地点の辺りで頓挫することを運命づけられたもののようにして、補完的に絡み合った「逸脱者」たちが結んだ友情の、極めて曲線的で人間臭い物語、それが「スケアクロウ」だった。


(人生論的映画評論/ スケアクロウ('73) ジェリー・シャッツバーグ <逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/73.html