ライアンの娘('70)  デヴィッド・リーン <ダイナミックな変容を見せる物語の劇的展開と睦み合う風景の変容>

   本作の歴史的背景となったアイルランド独立戦争(1919年から1921年にかけて戦われた独立戦争)と、その後のアイルランド内戦を背景に、IRA(アイルランド共和軍)絡みの兄弟の対立を描いた、ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」(2006年製作)では、アイルランド人に対するイギリス軍の苛烈な暴力による蛮行が、ゲリラ戦に身を投じるようになるモチーフとして鮮烈に表現されていた。

 他にも、ニール・ジョーダン監督の「マイケル・コリンズ」(1996年製作)では、アイルランドで起きた最初にして、最大の反乱であるイースター蜂起(1916年の復活祭の期間に惹起)から、アイルランド内戦で暗殺されるまでの生涯を描いていて、物語的仮構性を持っているものの、アイルランド史の学習の一助になる映像を作り出していた。

 以上の2篇のような、アイルランド独立戦争をテーマにした本格的作品に馴染んでいる者にとっては、本作で描かれた歴史的背景の切り取り方に疑義を唱えるかも知れない。

 確かに、本作に登場する英軍守備隊の描き方は、如何にも紳士然とした印象があった。

 更に、本作のヒロイン、ローズに対する「魔女狩り」や「人民裁判」を思わせる風景は、英軍によって統治されたアイルランド民族の卑屈と怨念、屈折を拾い上げていたが、そこに群がる寒村の民たちの歪んだ心理を露わに映し出していて、その俯瞰した視線に異議を唱える者もあるだろう。

 しかし本作が、紛れもなく、「人間ドラマ」として描かれていたことを無視できないのである。

 本作で描かれた5人の主要な登場人物たちを想起するとき、彼らのいずれもが、政治や社会情勢に対して一定の距離を置いていたことを確認する必要があるだろう。

 その5人とは、ヒロインのローズ、その夫のチャールズ、更に本作で、「正義」と「神」を象徴する存在として造形されたコリンズ神父や、その対極の象徴性を担う、「無垢なるスティグマ」のキャラクターとして造形されたマイケル、そして5人目は、ローズの不倫相手になるランドルフ少佐である。

 彼らはいずれも、尖った歴史のアナーキーなうねりに対して、常に距離を置いていたように思われるのだ。

 英軍の守備隊の指揮官を務めるランドルフ少佐の「使命感」もまた、単に与えられた職務を遂行するだけの人物造形として描かれていたことは重要である。

 ここに、二組の対極の構図が見られるのだ。

 チャールズとランドルフ少佐、そして、コリンズ神父とマイケルの関係構図である。
 
 この関係構造の中枢に、ヒロインのローズが、その身を全人格的に投げ入れていくのである。

 この5人の人物造形による困難で、複雑に絡み合う人間ドラマを構築したこと ―― それこそ本作のテーマであるだろう、

 とりわけ、コリンズ神父とマイケルの人物造形は、人間ドラマの複雑な絡みに深く関与させていることに着目すれば、本作が人間ドラマの奥の深い掘り下げを狙ったことが検証されるに違いない。

 壮大な歴史ドラマを描くのに、この二人の存在は、本来、不要になるはずだからだ。

 従って、本作は歴史のリアリズムではなく、歴史の困難な状況下に置かれた人間たちの生態を描くことに中枢のテーマがあったと見ていい。

 そして、その人間ドラマの中枢のテーマは、本稿で言及してきたように、「愛することの至福の歓び」が、そこに自己投入する者たちの人間性の是非とは無縁に複雑に絡み合う様態を示すことで、〈愛情〉の問題とは、軟着点に辿り着くのが容易でない個々の人格の、その欲望と受容能力の固有の閾値のうちに還元される外にないということだろう。

(人生論的映画評論/ ライアンの娘('70)  デヴィッド・リーン   <ダイナミックな変容を見せる物語の劇的展開と睦み合う風景の変容>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/70.html