屈折した心理で生きる青年の物語を、具体的に見ていこう。
青年の屈折した心理を見る際に重要なのは、彼が事件を起こす前に自殺を考えていたという事実である。
従って、青年を自殺に追い込む心理的風景の解析こそ、事件のバックボーンにあるものを説明し得るであろう。
小刀とカルモチンを買い、戸苅から3千円を借りて旅に出た直接の契機は明瞭である。
彼が信じた驟閣寺の道詮老師が世俗に塗れた偽善者であり、それを認知させられるに至った一件によって、老師からの冷たい仕打ちを受けるという経験を持ったことである。
その一件とは、「メフィストフェレス」である戸苅から煽られた吾市が、老師の愛人の写真を郵便物に忍ばせ、それを道詮老師に直接手渡すという行為によって、間髪を容れず、老師から実質的に絶縁告知を言い渡されるという一連の顛末のことである。
その直後の映像は、驟閣寺の自分の徒弟部屋で、吾市が顔を埋めて嗚咽する姿だった。
人間観察力の脆弱な吾市にとって、道詮老師の存在は、一貫して、「絶対美」である驟閣寺を守護するストイックな禅僧以外ではなかった。
この児戯的な幻想が根柢から破綻したのである。
純粋な魂ほど幻想を持ちやすいのだ。
と言うより、「汚泥した世俗」の現実を払拭させるに足る幻想を、彼は切望したのである。
幻想を切望せざるを得ない何かが、彼の自我のうちにべったりと張り付いていた、と言い換えた方が正解だろう。
しかし、この幻想の破綻は、「汚泥した世俗」の現実を改めて見せつけられることになった。
自分の父を裏切った母を決して許せない思いを抱き続ける彼は、道詮老師もまた、母と同じ種族であることを見せつけられたのである。
しかも拠り所のない吾市の母は、今や驟閣寺に居候し、同じ釜の飯を食う状況に置かれていたのである。
この辺りから、仏教系の大学に通う孤独な彼の学校生活に破綻が生じ、驟閣寺の僧侶になるという父の夢を具現するイメージは自壊していくのだ。
自ら戸刈に最近接していったモチーフも、彼の孤独を癒すためだけではなく、戸刈の中に「メフィストフェレス」的な劇薬性を感じ、自分中にない歪んだ攻撃性のうちに部分的に同化することで、無防備な自我を武装しようとしたのであろう。
しかし、道詮老師に対する吾市の絶望は、「絶対美」としての驟閣寺との睦みを実現し得る、拠って立つ自我の安寧の基盤をも崩す危うさを高めてしまったのである。
それ以外にない居場所を失った青年には、もう選択し得る行動は限定的だった。
中枢を空洞化され、いよいよ自殺に振れていくネガティブな心理が、遂に自殺を目途にした旅路への選択的行為に繋がっていく。
前述したように、小刀とカルモチンを購買した吾市は、戸苅から3千円を借りて旅に出たのである。
日本海に臨む故郷、京都府舞鶴市にある成生岬(なりゅうみさき)の断崖を前に、「汚泥した世俗」が氾濫する中で、居場所を失った青年が立ち竦んでいた。
青年の脳裡には、「汚泥した世俗」の象徴である母に裏切られて、孤独のうちに死んでいった父の苦衷の表情が思い出されるばかり。
結局、吾市は自殺を翻意した。
それは、「自分には未だやり残した使命がある」とでもいうような心理の振れ方だったのか。
ここに、本作で最も重要な会話がある。
自殺を翻意して寺院に戻った吾市と、戸刈との会話である。
吾市に貸した3千円の金銭の取り立て目的で、戸刈が驟閣寺の道詮老師を訪ねた日のことだ。
戸刈の下宿を訪れた吾市に、戸刈は放言した。
「俺は今日、驟閣を初めて見て回ったんだが、聞きしに勝る良いところだった・・・国宝と称せられる建物もあるし、金は集まり放題やし」
吾市は珍しく反駁する。
「いや、違うんや。君には分らへん」
戸刈の反応は、相変わらず毒気含みだ。
「じゃあ、お前には分ってんのか。驟閣はお前の何なんだ!お前はただ、小さくなって和尚に養われている徒弟に過ぎないじゃないか。まあ、あの寺を離れたら、吃りの君などは一日だって生活できないんだから、その意味で、君が驟閣に執着するって言うんなら分るがね」
このときの吾市の反駁には、それを開かざるを得ないマキシマムな感情と、彼なりのピュアな観念系が存分に乗せられていた。
「違うんや。驟閣は誰のものでもないんや。老師のもんとも違う。驟閣は始めからあったんや。始めから奇麗やったんや。皆で金儲けの道具にしようとかかっているんや。せやけど、驟閣は変わらへんで。君は生きているもんは、皆、変わる言うたけど、驟閣は生きているけど変わらへんで。俺が変わらせへん」
「俺が変わらせへん」と言い切った思いこそ、もう選択し得る行動を特定した者が辿り着いた厄介な地平であった。
(人生論的映画評論/炎上('58) 市川崑 <「絶対美」を永遠の価値とする青年僧の、占有への睦みの愉悦>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/blog-post.htm
青年の屈折した心理を見る際に重要なのは、彼が事件を起こす前に自殺を考えていたという事実である。
従って、青年を自殺に追い込む心理的風景の解析こそ、事件のバックボーンにあるものを説明し得るであろう。
小刀とカルモチンを買い、戸苅から3千円を借りて旅に出た直接の契機は明瞭である。
彼が信じた驟閣寺の道詮老師が世俗に塗れた偽善者であり、それを認知させられるに至った一件によって、老師からの冷たい仕打ちを受けるという経験を持ったことである。
その一件とは、「メフィストフェレス」である戸苅から煽られた吾市が、老師の愛人の写真を郵便物に忍ばせ、それを道詮老師に直接手渡すという行為によって、間髪を容れず、老師から実質的に絶縁告知を言い渡されるという一連の顛末のことである。
その直後の映像は、驟閣寺の自分の徒弟部屋で、吾市が顔を埋めて嗚咽する姿だった。
人間観察力の脆弱な吾市にとって、道詮老師の存在は、一貫して、「絶対美」である驟閣寺を守護するストイックな禅僧以外ではなかった。
この児戯的な幻想が根柢から破綻したのである。
純粋な魂ほど幻想を持ちやすいのだ。
と言うより、「汚泥した世俗」の現実を払拭させるに足る幻想を、彼は切望したのである。
幻想を切望せざるを得ない何かが、彼の自我のうちにべったりと張り付いていた、と言い換えた方が正解だろう。
しかし、この幻想の破綻は、「汚泥した世俗」の現実を改めて見せつけられることになった。
自分の父を裏切った母を決して許せない思いを抱き続ける彼は、道詮老師もまた、母と同じ種族であることを見せつけられたのである。
しかも拠り所のない吾市の母は、今や驟閣寺に居候し、同じ釜の飯を食う状況に置かれていたのである。
この辺りから、仏教系の大学に通う孤独な彼の学校生活に破綻が生じ、驟閣寺の僧侶になるという父の夢を具現するイメージは自壊していくのだ。
自ら戸刈に最近接していったモチーフも、彼の孤独を癒すためだけではなく、戸刈の中に「メフィストフェレス」的な劇薬性を感じ、自分中にない歪んだ攻撃性のうちに部分的に同化することで、無防備な自我を武装しようとしたのであろう。
しかし、道詮老師に対する吾市の絶望は、「絶対美」としての驟閣寺との睦みを実現し得る、拠って立つ自我の安寧の基盤をも崩す危うさを高めてしまったのである。
それ以外にない居場所を失った青年には、もう選択し得る行動は限定的だった。
中枢を空洞化され、いよいよ自殺に振れていくネガティブな心理が、遂に自殺を目途にした旅路への選択的行為に繋がっていく。
前述したように、小刀とカルモチンを購買した吾市は、戸苅から3千円を借りて旅に出たのである。
日本海に臨む故郷、京都府舞鶴市にある成生岬(なりゅうみさき)の断崖を前に、「汚泥した世俗」が氾濫する中で、居場所を失った青年が立ち竦んでいた。
青年の脳裡には、「汚泥した世俗」の象徴である母に裏切られて、孤独のうちに死んでいった父の苦衷の表情が思い出されるばかり。
結局、吾市は自殺を翻意した。
それは、「自分には未だやり残した使命がある」とでもいうような心理の振れ方だったのか。
ここに、本作で最も重要な会話がある。
自殺を翻意して寺院に戻った吾市と、戸刈との会話である。
吾市に貸した3千円の金銭の取り立て目的で、戸刈が驟閣寺の道詮老師を訪ねた日のことだ。
戸刈の下宿を訪れた吾市に、戸刈は放言した。
「俺は今日、驟閣を初めて見て回ったんだが、聞きしに勝る良いところだった・・・国宝と称せられる建物もあるし、金は集まり放題やし」
吾市は珍しく反駁する。
「いや、違うんや。君には分らへん」
戸刈の反応は、相変わらず毒気含みだ。
「じゃあ、お前には分ってんのか。驟閣はお前の何なんだ!お前はただ、小さくなって和尚に養われている徒弟に過ぎないじゃないか。まあ、あの寺を離れたら、吃りの君などは一日だって生活できないんだから、その意味で、君が驟閣に執着するって言うんなら分るがね」
このときの吾市の反駁には、それを開かざるを得ないマキシマムな感情と、彼なりのピュアな観念系が存分に乗せられていた。
「違うんや。驟閣は誰のものでもないんや。老師のもんとも違う。驟閣は始めからあったんや。始めから奇麗やったんや。皆で金儲けの道具にしようとかかっているんや。せやけど、驟閣は変わらへんで。君は生きているもんは、皆、変わる言うたけど、驟閣は生きているけど変わらへんで。俺が変わらせへん」
「俺が変わらせへん」と言い切った思いこそ、もう選択し得る行動を特定した者が辿り着いた厄介な地平であった。
(人生論的映画評論/炎上('58) 市川崑 <「絶対美」を永遠の価値とする青年僧の、占有への睦みの愉悦>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/blog-post.htm