ウェディング・バンケット('93)  アン・リー <新世代の観念系の氾濫と、「異文化」を受容せざるを得ない旧世代の宿命的関係様態>

 ここで、コメディラインを繋ぐ前半のプロットを簡潔に書いておく。

 マンハッタンで、恋人のアメリカ人男性、サイモンと「同棲」するウェイトンは、不動産業を成功させた台湾人青年。

 しかし、「適齢期」を過ぎても結婚しない一人息子の身を案じるウェイトンの両親は、痺れを切らして台湾から渡米するに至った。

 当然の如く、自分がゲイであることを告白できずにいたウェイトンの悩みを、一過的に「解決」する手段として、二人は偽装結婚を思いつく。

 その偽装結婚の相手として選ばれたのが、友人であるが故に安い倉庫を住居代わりに貸していた、画家志望のウェイウェイ。

 アメリカ滞在のためのビザの期限が迫っていた彼女は、グリーンカード(永久居住権)を得る目的のみで二人の話に乗ったことによって、コメディラインの物語が動いていく。

 偽装結婚を演じる行為それ自身をフォローしていけば、当然、物語はコメディ調に展開していくのである。

 まもなく、満を持して、ウェイトンの両親が渡米して来た。

 台湾で育ち、旧世代の古い考え方を抱懐するウェイトンの両親は、一人息子の「晴れの舞台」を見るために、台湾式の賑やかな結婚式をするように迫り、結局、それなしに済ませようとした3人の思惑は外れ、「ウェディング・バンケット」(結婚披露宴)を催す事態に至ったのである。

 そして、物語は「ウェディング・バンケット」の長いシークエンスに流れていった。

 この些か長尺なシークエンスに、観る者は驚かされるだろう。

 何しろ、「ウェディング・バンケット」自体の騒ぎ方が文化として定着している台湾の実情に、近年その内実に変化が見られながらも、バンケット自体を「報恩のセレモニー」として把握する、我が国の形式的な様態との顕著な落差を印象付けられるのである。

 二人きりになった「新郎新婦」の個室に、仲間たちが大量に押しかけて来て、麻雀したり、泥酔したり、あろうことか、招待客の前でベッドインを強制した挙句、「新郎新婦」はそれを遂行したりするという具合なのだ。

 「台湾の結婚披露宴に招いていただきました。日本の披露宴とは随分違います。何が違うのか?それは主役が招待客であると思える点かもしれません。日本の披露宴に多い新郎新婦のショ-のようなイメ-ジはありません。勿論、来て下さった方々に2人を披露するわけですから、その要素はあって当然なのですが、雰囲気は随分違いますね。硬苦しい挨拶は勿論ありません。席が決めれているわけでもありません。時間を守らないといけないわけでもありません。時間になればポツリポツリと人が増えていく。こんな楽しい披露宴は初めてでした」(「台湾の結婚披露宴」ブログ)

 これは、ネットサイトで拾った「台湾の結婚披露宴」ブログの一文だが、なるほど本作が決してオーバーアクションの産物ではないことを立証し得るものだった。

 ともあれ、この「ウェディング・バンケット」をピークアウトにして、紛う方なく、本作は「シリアスドラマ」に踏み込んでいく。

 「ウェディング・バンケット」の流れでの形式的なベッドインが、「新婦」のリビドーを惹起させたのか、彼女は懐妊してしまうのだ。

 偽装結婚の仮装性が、最も中枢の部分で壊れた瞬間だった。

 と言っても、「新婦」に結婚の意志がある訳でないし、「新郎」に結婚を受容する思いが存在する訳ではない。

 しかし、このような「ルール違反」を目の当たりにして、恋人のサイモンは嫉妬する。

 当然のことだ。

 この葛藤のシークエンスが、食事中の両親の眼の前で露呈されたが、英語による会話で推移したことで、当人たちは、単なるコミニュケーションの行き違いとして処理したはずだった。

 しかし、片言の英語を理解する父親は、事態の本質を見抜くに至り、遂には痼疾(こしつ)の心臓疾患の発作で倒れてしまうのだ。

 明らかに、真実を知ったことによる衝撃が、父親の疾病を誘導するに至ったのである。

 入院した父親を見舞いに行くウェイトンは、遂に母親に真相を告げるが、当然の如く、「異文化」の受容を拒む母親は嘆くばかり。

 彼女の自我には、「同性愛者の一人息子」という観念のほんの一片でも拾い上げる文化的土壌が、全く張り付いていないのだ。

 また、「新郎」の父親に付き添っていたサイモンは、その父親が偽装結婚と「同性愛者の息子」という真実を知っていることを確認し、彼から「秘密の共有」を約束させられた。

 こうして、本作の主要登場人物である5人は、個別相互間に「秘密の共有」を作り出していったのである。

 「シリアスドラマ」に入ってからの物語展開の切迫感は、些か浮薄な、それまでのコメディラインの基調音を確実に削り取っていくのである。

(人生論的映画評論/ウェディング・バンケット('93)  アン・リー <新世代の観念系の氾濫と、「異文化」を受容せざるを得ない旧世代の宿命的関係様態>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/93.html