メランコリア(‘11) ラース・フォン・トリアー <「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に提示した挑発的映像の凄み>

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序  「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に提示した挑発的映像の凄み



抜きん出た構成力と毒気溢れる主題提起力によって、一級のアートにまで昇華したラース・フォン・トリアー監督の力量を存分に検証した傑作。

「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に対して、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感の「共有」を迫っていく映画。

これが、この傑作のエッセンスである、と私は考えている。

自分の内側に抱える根源的問題の提示を、覚悟を括って真っ向勝負で突きつけてきて、それを高い水準の映像にまで昇華させた腕力の凄みに、誰が何と言おうと、私は最大級の賛辞を贈りたい。

とにかく、素晴らしい映像だったと言う外にない。

 
3  極限状況の恐怖を均しく「共有」する事態を強いてくる物語



人間は自給熱量が少しでもあれば、動けるのだ。

それは、自死に振れていく危うさを同居させるが、それでも、その危うさに持っていかれることなく、いつの日か、それが自己実現的な可能性を秘める何かを含むという漠然とした観念に、一切を丸投げすればいいのだ。

私の場合、そう思った。

自殺するにも熱量が必要なのだ。

その熱量を転嫁させていくのは相当に厳しい作業だが、少なくとも「今」、「ここ」で、死にたくないという一縷(いちる)の思いが張り付いているなら、そのような身体疾駆を捨ててはならないのである。
 
私がラース・フォン・トリアー監督の映画を観ていて、いつも思うのは、彼自身の「メランコリア」の内実が、どの程度のものか全く把握できないながらも、そこで自給される熱量を駆使して、「映画を作るのは鬱病の治療薬」だと常々語っているように、「映像」というアートの世界で自己実現を果たしていくように見える営為に、胸が抉られるような感銘を受ける。

彼は、このようにして、自らの「疾病」と向き合ってきたのだという事実に、身震いするほど感動するのである。

本稿では、どこまでも「人生論的映画評論」という視座で書いていくつもりなので、物語総体の分析にはあまり立ち入るつもりはない。

私から見れば、この映画には、16世紀フランドル(現在のベルギー)の「農民画家」ピーテル・ブリューゲルの、生活のための狩りの疲弊感と、スケートを楽しむ村人たちとの対比を描いた「雪中の狩人」や、19世紀の英国画家のジョン・エヴァレット・ミレーの、狂気の中で死に振れて、小川に浮遊する「オフィーリア」などが映像提示されているが、それらが何某かのメタファーの反映であることを認知しつつも、特段の深読みは不要であるばかりか、深読みの「解読ゲーム」で充足してしまう「表層的」な「知的鑑賞者」への、「メランコリア」の「地獄」の本質に肉薄しようとしない、奥行きの欠落した「偽善性」へのアイロニーが包含されているように思えるのだ。
 
なぜなら、本作の基本骨格が、「メランコリア」の本質との、作り手の真っ向勝負の直接対決の凄惨さであり、且つ、それ以外にない辺りにまで追い詰められた者の全人的な自己救済の叫びを、映像的に昇華した一篇に仕上がっていると印象づけられるからである。

直截に言えば、本作は、「うつ病者」=ジャスティンのネガティブ・イメージの極点である、「メランコリア」という、天体の異形の破壊者としての「リヴァイアサン」的妖怪の、狙い澄ました異次元の「意思」の発現の圧倒的な暴力的襲来による、地球という名の「生命体の集合的生存圏」の解体=人類滅亡の極限状況の恐怖を、均しく「共有」する事態を強いてくる物語である。

従って、「生命体の集合的生存圏」の解体=人類滅亡の恐怖によってのみ、全人的な自己救済を達成されるネガティブ・イメージは、「死後の世界なんてなくて、無の世界で、死んだ瞬間に、全てがそこで終わりになってお終い」(某「うつ病者」の手記)という「終末の世界」の「共有」にまで流されていく、ある種の「うつ病者」の言語を絶する精神的不安の様態に無知なばかりに、単に「気の病」と片付けてしまう傲慢さへの「公平」な鉄槌であると言っていい。

即ち、本来は生命の危機と隣接する明瞭な「疾病」であるに拘らず、相も変わらず、「自分もウツだよ」と軽薄に言ってのける、「偏見」をベースにした「激励」や、的を外れた「アドバイス」という偽善を押し付けてくる者たちへの、恐怖の「共有」を迫る映像なのだ。



4  ジャスティ」 ―― 灰色の毛糸が絡まって、足を取られて進めない女の心の地獄



恐怖の「共有」を迫る映像が描かれる物語の本線を際立たせるために、「対比効果」の手法を駆使して、他者の視線が一斉に侵入してくる前半の、派手に彩られたネガティブ・スポットとしての、過剰な盛り上がりの強制力である「宴」が延々と描かれていく。
 
広告会社の社員である新郎のマイケルと、コピーライターである新婦のジャスティンの社内結婚のセレモニーは、今や、結婚披露宴会場に向かうリムジンの中で、二人の愛は何事もなかったように一定の感情隆起を迎えつつあった。

ところが、リムジンが山道で立ち往生したことで、2時間遅れの披露宴を必至にした。

それが、二人の結婚の危うさの前兆を示すことが顕在化するのは、殆ど時間の問題だった

披露宴の当初は、事情を知る者たちの寛容さで受容されていたパーティーの空気が不浄になっていく契機 ―― それは、実母であるギャビーの唐突なスピーチだった
 
クレアとジャスティンの姉妹であり、既に、姉妹の父と離婚しているギャビーは、場違いのネガティブ・スポットの渦中で、相当の破壊力を持つ爆弾を投げ入れる。

「私は教会も結婚制度も信じてない」

そう、言ってのけたのだ。

それが、「宴」の空気が変容させていく第一弾になった。
 
ジャスティンの表情が、見る見るうちに陰鬱なものに変容していったのである。


山奥の結婚披露宴会場に身を投げ入れること自体、彼女なりの「頑張り」を不可避としつつ、それを無難に乗り越えてきた心の奥深くに、この母親の否定的言辞が侵入してきたとき、遂に、ジャスティンの「頑張り」は許容限界点に達したのである。

大体、結婚という、人生の重要な節目になるような大きな決断をすること自体、「うつ病者」にとって由々しきストレスになってしまうのだ。
 
その直後、ジャスティンは、盛大な披露宴会場を離れて放尿しながら、さそり座で最も明るい恒星のアンタレスを見つめる奇矯に振れていく。

披露宴会場に戻ったと思ったら、睡魔に襲われ、ベッドに横になる始末。

それまで、「疾病」故の、ジャスティンの奇矯に振り回されてきたであろう姉のクレアは、妹の傍に寄り添って、言葉をかけていく。

「一体、どうしたの?」
「私、思うように動けない。灰色の毛糸が絡まって、足を取られて進めない。すごく重く、引っ張られて・・・」
「思い過ごしよ」
「こんな話、嫌いよね」
 
「灰色の毛糸絡まり」は、当然、ジャスティンの精神状態を表わす妄想だが、既に、映像は、繰り返し、深夜のゴルフ場の特定スポットで、蔦を絡ませながら前に進もうとして思うようにならない、ウェディングドレスのジャスティンの妄想のカットを挿入していた。

それは、偏見に晒されやすい「うつ病者」の、言語を絶する精神的不安の様態をイメージさせる印象深いカットだった

一度、精神的不安の様態を顕在化させてしまった「うつ病者」の人格を、それまでの「頑張り」の世界に復元するには相当の無理がある。

ケーキカットの時間なのに、入浴するジャスティン。

その後、彼女なりに努力し、笑みを作っても続かず、一人で嗚咽するばかり。

それでも気を取り直したジャスティンに、新郎のマイケルは、新婦へのとっておきのプレゼントを渡す重要なシーンがあった。

「りんご園」が写っている一枚の写真を見せて、マイケルは自慢げに、しかし、存分の優しさを込めて静かに語りかけていく。

「土地を買ったんだ。りんご園だ。真っ赤で赤い実がなる。酸味も完璧。子供の頃、食べた。素敵だろ。10年後には木が育ち、君は木陰に椅子を置いて座る。その頃も、気が沈む日があれば、りんごの木が君を幸せにしてくれる」

新婦が「うつ病」を患っている事実を認知している心優しい新郎の配慮に、ジャスティンは「優しいのね」と反応する。

しかし、その反応には、明らかに無理があった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/メランコリア(‘11) ラース・フォン・トリアー <「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に提示した挑発的映像の凄み>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/06/11.html