竹山ひとり旅('77) 新藤兼人 <「目明きは、汚ねえ!」 ―― ラスト20分の爆轟の突破力>

  〈生〉を絶対肯定するエピソード繋ぎだけの前半の冗長さから、ラスト20分で爆発する「反差別」へのシフトが劇的であっただけに、映像構成の些か不安定な流れ方が気になったが、〈生〉と〈性〉を包括する定蔵(後の高橋竹山)の青春の日々の彷徨に決定力を与える映像構築力には、相当の力動感があり、感銘も深かった。

 「目明きは、汚ねえ!」

 定蔵に、この一言を叫ばせるための映像だったのか。

 そう思わせるに足る、ラスト20分の爆轟(ばくごう)だった。

 その辺りのエピソードを再現しよう。

 鍼灸師の資格の取得のために入学した盲唖学校の教師から、定蔵は妊娠した教え子のみち子の胎児を認知してくれという信じ難き相談を受け、悩みつつも引き受けた。

 教師の自分勝手な行動を「個人主義」と批判しながら、その人柄の良さを信じ切っていたからである。

 映像の中で、定蔵の、他人を見る視線の児戯性が最も顕在化したシーンであった。

 教師を信じ切った定蔵は、ものの見事に裏切られるに至った。

 盲唖学校の教師の話の詳細は、単に自分がみち子に孕ませた子を認知させるために、人の良い定蔵を巧妙に説得する嘘話だったのだ。

 盲唖学校の校長から、その話を聞き知った定蔵が、「目明きは、汚ねえ!」という叫びを刻んだのはその直後である。

 この叫びに集約されるラスト20分の爆発が、映像を根柢において支配していると言っていい。

 そこでは、命とも言える三味線を捨てて、白一色の厳冬の自然の世界の中に、敢えて甚振られる如き、文字通り、「一人旅」の彷徨を繋ぐ絶望的な時間が冷厳に記録されるのだ。

 「お母さん、うちの人ば、探しに行きてえ」

 これは、定蔵の妻であるフジが、その不自由な身体のハンディを鞭打ってまで、義母(定蔵の母のトヨ)に放った、覚悟を括った言葉である。

 「ほっとけ。野垂れ死にばさせろ」

 これは、定蔵の父の一言。

 一貫して彼は、息子を包括するストロークを発しない。

 涙を浮かべるだけで、嫁の思いを受容する母。

 一方、三味線を捨てた定蔵は、今や尺八の門付けとなって、冬の陸奥路を彷徨している。

 みち子の実家の前で、尺八を吹く男が立ち止まった。

 定蔵である。

 盲目のみち子には、意図的に言葉を発しない定蔵を特定できないのだ。

 その定蔵を追って、盲目のフジを紐に繋いで、トヨが誘導する困難な旅路を、母と嫁が匍匐していくのだ。

 そして二人は、みち子の実家を訪れた。

 そこで、みち子から尺八の門付けが訪問したことを聞き知って、定蔵を特定したのである。

 まもなく二人は、地面に倒れている定蔵を発見した。

 下手な尺八の門付けによって、地元の男から殴られたことなどで、定蔵は殆ど生命の律動感を喪失していたのだ。

 「定蔵、おめえ、ここで何ばしてらあ。死ぬ気だか。俺たちゃ、おめえを探しだすまでは、この世の果てまでも、歩き続けるべと思うたぞ!」

 トヨは息子を叱咤した。

 その時だった。

 盲目のフジは這って、這って、定蔵の元に行き、必死に抱きしめた。

 「おめえば、やっぱり三味線ば弾く人だ」

 困難な旅路を繋いできたフジの言葉は、それ以外にない決定力を持つ叫びとして刻まれたのである。

 「定蔵!三味線ば、持て!」

 このフジの叫びを、トヨの一言が強力に補完した。

 ラストシーンの映像は、三味線を手にした定蔵が門付けの旅を繋ぐ姿形を捕捉するものだが、男の内側に凛として根を張る〈生〉への意志が、後の竹山の表現宇宙への架橋を充分に想像させるに足るものだった。


(人生論的映画評論/竹山ひとり旅('77) 新藤兼人 <「目明きは、汚ねえ!」 ―― ラスト20分の爆轟の突破力>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/77.html