舞踏会の手帖('37) ジュリアン・デュヴィヴィエ <寡婦の自我を「恐怖突入」させることで、危惧を漸減する適応戦略についての物語>

 年の離れた夫との夫婦生活の中で、もしこの若妻が、「自分にとって真の幸福とは何か」などという「人生の根源的問題」に深入りしたならば、愛情が一方通行で、物質的に満たされていただけの夫婦生活に深刻な破綻を来たす危機が出来したに違いない。

 「私は恋を知らないの」(夫の秘書に語った言葉)

 そんな思いを持ちながらも、とりあえず、表面的には平和で安定的な生活を確保していたであろう、クリスティーヌという名のその若妻は、自分の幸福に関わる「人生の根源的問題」に向き合う精神的態度を封印する以外になかったと思われる。

 そんな若妻に、「不幸」が突如襲ってきた。

 夫の死である。

 夫の死によって、クリスティーヌは、内側の表層に封印してきた世界への自己投入を開いてしまったのである。

 彼女は、真摯に自らの「現在」に向き合うことになったのだ。

 「自分の『本来的幸福』は、一体どこにあるのか?」

 「自分に残された長い人生を、有意義に過ごすにはどうしたらいいのか?」

 そんな「人生の根源的問題」に、クリスティーヌは対峙し、納得のいく答えを顕示せざるを得なくなったのである。

 幸いにして、今や寡婦となったクリスティーヌは、齢36の若さ。

 ほぼ、人生の折り返し点に達する程度の年齢である。

 美貌も保たれている。

 経済的な余裕もある。

 しかし、肝心なものがない。

 それを封印してきたからだ。

 その肝心なものを探すための旅に、クリスティーヌは打って出たのである。

 今の言葉で言えば、「自分探しの旅」である。

 「旧友がどう変わったのかを見てきます。失われた時を求めて・・・それと昔の愛も」

 これも、亡夫の秘書に語った言葉。


 彼女がそのために選択した手段は、かつて自分が最も純粋に輝いていたと信じる、青春期の心地良き思い出に立ち返ることだった。

 16歳の初舞踏会の忘れ難いステージで、自分に恋を囁(ささや)いてくれた10人の男たち。

 亡夫の秘書の調べで、既に2人は逝去し、「本命」のジェラールの行方は知らずとも、それでも彼女は、彼らの消息を求める旅に打って出たのである。

 クリスティーヌは、「あるべき未来の自己」のイメージの契機を得るために、「過去」に向かったのだ。


(人生論的映画評論/舞踏会の手帖('37) ジュリアン・デュヴィヴィエ  <寡婦の自我を「恐怖突入」させることで、危惧を漸減する適応戦略についての物語>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/09/37_13.html