ぼくの伯父さん('58) ジャック・タチ <ミニマムに嘲笑して自己完結する「緩やかな風刺」のメンタリティ>

 この映画は、二つのシーンによって説明できる作品である。

 その一つは、冒頭のゴミ箱を漁る野良犬、飼い犬たちのシークエンス。

 散々ゴミ箱を漁った後、その犬の群れがシフトした先に、一軒の時代離れしたモダンな邸宅があった。

 群れから離れた一匹の飼い犬は、その邸宅の門戸の下を掻い潜り、幾何学的模様の庭園の曲線的ルートを走って行って、豪華な玄関に辿り着く。

 そこに待っていたのは、邸宅に住む社長夫人。

 清掃中の彼女は如何にも汚らしい物を触る仕草で、外で遊んで来た愛犬を摘み上げ、屋内に連れて行った。

 他の犬の群れは、閉ざされた門戸の外で屯(たむろ)していたが、自分の飼い主の家屋ではないからか、退散するのみ。

 この邸宅こそ、本作の主人公であるユロ伯父さんの実妹の家。

 ユロの妹が社長夫人なのだ。

 この何気ないシークエンスでは、モダニズムの極致とも言える、オール電化邸宅に住む者の「清潔感」への圧倒的な拘りを示すものだった。

 もう一つは、この邸宅に住む者たちのその生活風景の内実を示すシークエンス。

 以下の通りである。

 件の社長夫人が、夫を驚かせるために、センサーで開閉するガレージを作って自慢げに夫の帰宅を待っていた。

 帰宅した夫に、夫人はいの一番に誇ってみせた。

 「ここを通ると作動するの。鍵はいらないでしょ。お気に召して?」

 その夫から新車をプレゼントされ、二人でその新車に乗ってガレージに収納されていく。

 ところが、社長宅の愛犬が横切ったことで、件のセンサーが作動してしまったのである。

 夫婦が新車ごと、ガレージの中に閉じ込められてしまったのだ。

 二人は慌てて愛犬を呼び寄せ、センサーの作動を試みるが、肝心の愛犬は離れて行ってしまう始末。

 そこでお手伝いさんを大声で呼び寄せ、センサーの作動スポットに立つことを要求するが、そのお手伝いさんの反応もまた愉快なもの。

 「無理です。私、電気が怖いんですもの」
 「何も危険はない。歩けば電源が入るんだ」と社長。
 「電源が?そんな、感電しますわ」
 「眼を閉じて勇気を出せ。前へ進めさあ、早く」

 社長である邸宅の主人に、そう指示されたお手伝いさんが、眼を瞑りながら、ゆっくりと歩行することで、ようやくガレージの扉が開いたという顛末だった。

 以上の二つのシークエンスで、表現されたのは、極端な清潔志向とモダニズムとの睦みである。

 清潔とは、「異物」への拒否感である。

 本作では、このモダニズムの豪邸に住む者たちの視線が捕捉する「異物」と、そして「異物」の典型的な象徴として描かれた主人公ユロが振舞う、その「異物」の日常風景を二項対立的に描かれていた。

 そこには、近代化を極限的に進めていけば、このような生活風景に逢着するというアイロニーが存分に内包されていたのである。

 しばしば、スラップスティックアイロニーがフル稼働する本作を語るには、以上のエピソードで充分だろう。

 そして、このエピソードは、「醜悪なモダニズム」を占有する社長夫婦の極端な生活風景が、近隣地域に住む人々との間に、必ずしも、物理的・心理的次元での「共有関係」を具現していないことを如実に説明する描写として圧巻だった。

 そのことは翻って言えば、社長の会社でドジを繰り返し、田舎の支店に転任されるに至る、スローライフ基調のユロの日常風景を最も際立たせるシークエンスでもあったと言える。

 魚の噴水がひと際目立つ曲線上の庭園の道に象徴される、「醜悪なモダニズム」への痛烈なアイロニーとして、誰がどこの階を歩いているのか、街路から仰ぎ見て一目瞭然の、下町の芸術細工のようなペントハウスに住み、主に自転車と徒歩のみで、自由気ままな生活を謳歌する、独身失業中のユロの日常風景への執拗なフォローは、二項対立の際立つ構図を発信するのである。

 ただ正直に書けば、「ユーモア」と「エスプリ」に満ちた逸品ではあったが、あまりに類型的なモダニズムの醜悪さと、スローライフ感覚へのトリビュートという、二項対立の単純な物語構成によって2時間も引っ張られるのはしんどく、些かタイムオーバー気味だったのは事実。

 フィルムが長尺だから良いというものではないのだ。

 とりわけ、コメディの場合は。

(人生論的映画評論/ぼくの伯父さん('58) ジャック・タチ <ミニマムに嘲笑して自己完結する「緩やかな風刺」のメンタリティ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/58.html