この映画の狡猾なところは、「純粋」で「誠実」なキャラを持ち、「父をインディアンに殺された不幸を負う」良心的な青年兵士を主人公に設定することで、「真の良心に目覚めた青年兵士の変容」のうちに、「サンドクリークの虐殺」という歴とした由々しき史実を、観る者の感情移入を容易にしやすい物語的仮構性を安直に前提化させてしまったこと。
アメリカン・インディアン問題の本質において最低限の描写を提示することなく、ニューシネマの軽快なステップで、ユーモアをたっぷり交えた「ラブストリー含みのロードムービー青春譚」の基調音の物語構成を、「変容する風景」への劇的転換の効果をマキシマムにしたこと。
そこに、相も変わらず、風景の劇的変容による「驚かしの技巧」が踊っていたのだ。
何より、物語をあまりに単純化し過ぎている。
これは、「良心的二等兵」としてのホーナスの心理を追っていくことで判然とするだろう。
それを要約してみよう。
それは、「前線離脱」→「銃後彷徨」→「前線拒絶」という風な流れで把握することができるだろう。
「前線離脱」とは、自分が所属する騎兵隊が全滅することで、婚約者に会いに行くクレスタと二人だけの状態になって、その役割を担うために阿修羅の前線を離脱する行程である。
それを私は、「逃げた」という言葉で簡潔に表現したい。
次に「銃後彷徨」とは、クレスタを婚約者の元に送り届ける使命を持ちながらも、その行程の本質が、その日を満たすに足るミニマムの「食」の問題や、インディアンからの奇襲のリスクを負う性格から見れば、まさしく、「銃後彷徨」と表現するのが相応しいと思われる。
それを私は、「聞いた」という言葉でまとめてみた。
この「聞いた」という意味の内実は、2年間、シャイアン族との決して不愉快ではない共存を強いられていたクレスタの口から、ダイレクトに「インディアン無罪論」を聞くことによって、かつて、自分の父をインディアンに殺害され、瞋恚(しんい)の炎(ほむら)に燃えていた自我のうちに、クレスタに対する否定的感情含みの反応によって自我武装する防衛機構が、内的に要請されていく心理を示すものである。
これについては、クレスタとの重要な会話があるので再現してみる。
シャイアンと銃の取引をする男と、二人が出会ったときの会話。
「銃を売った?」とホーナス。
「シャイアンに?」とクレスタ。
「我々が殺されるのを、なぜ、止めない」
「私にはできないことよ」
「仲間だぜ」
「仲間はニューヨークにいるわ」
「自分の国だ」
「どこが?ここはインディアンの国よ!」
「じゃあ、なぜシャイアンと一緒にいない?」
「それなら言うわ。言葉も服も食べ物も違うからよ。私はシャイアンに生まれたんじゃないわ。だけど、シャイアンはね、血に飢えた兵隊よりも、ずっと人間らしいわ」
「君は反逆者だ」
「そう思えばいいわ」
クレスタを「反逆者」とラベリングすることで保持される「認知の継続」によって、自我を再武装する防衛機構が内的に要請されていく心理が、そこに垣間見えたのである。
最後に「前線拒絶」とは、クレスタを婚約者の元に送り届ける困難なプロセスのうちに、この「良心的二等兵」がアイバーソン大佐指揮下の騎兵隊に吸収されていく行程の後に出来した、「サンドクリークの虐殺」という由々しき前線への自己投入の拒絶を意味する。
二人がそこで見たのは、シャイアン族への襲撃計画であった。
その情報を婚約者から聞き知ったクレスタは、自分が世話になっていたシャイアン族のキャンプに報告に行くが、時既に遅く、騎兵隊の襲撃は開かれていった。
このラスト15分間の凄惨な殺戮の状況は、まさに「地獄の前線」だった。
「敵はこの世で最も忌むべき輩だ。心して闘いに臨め。殺害、強姦、拷問、彼らの毒牙にかかった同胞は数限りない。その彼らに慈悲は無用だ。それを忘れるな!」
これが、アイバーソン大佐の殺戮の号令。
この殺戮の号令を遂行する騎兵隊の将兵たち。
ホーナスはそこで、阿鼻叫喚の地獄絵図を視界に収め、彼の中の「騎兵隊正義論」は一気に破綻し、立ち所に自壊していくのだ。
それを私は、「見た」という言葉で把握してみた。
これは、まさに「銃後彷徨」のキーワードであった、クレスタから聞いた「インディアン無罪論」が事実であることを見せつけられて、「良心的二等兵」は「前線拒絶」を身体化するのだ。
「バカ野郎!」とホーナス。
二等兵の「青二才」に屈辱的な一言を浴びせられたのは、本隊の指揮官であるアイバーソン大佐。
「反逆罪」を決定付けたこの一言が、彼の「前線拒絶」を集約する叫びとして刻まれたのである。
「全部隊の将校、及び兵士に心からの尊敬と信頼を持って、任務を完遂したことを称賛する。諸君は本日、アメリカには新たなる安住の地をもたらし、インディアンには忘れ得ぬ教訓を与えた。諸君は終生、今日という日を誇りに思うがいい。アイバーソン大佐の指揮下で戦ったことを」
この言葉は、「サンドクリークの虐殺」を終焉させるものとして、指揮官から放たれたものだ。
そして、「反逆罪」に問われたホーナスが、引き立てられて行くラストシーンの構図に、それを見守るクレスタの肯定的ストロークが放たれて映像は閉じていく。
「1864年11月29日。700名のアメリカ騎兵隊は、コロラドのサンドクリークのシャイアンの村を襲った。インディアンは降伏の白旗を掲げたが、騎兵隊は攻撃を開始。500名を虐殺した。その大部分は女子供だった。100名以上は頭皮を剥がされ、手足を切り取られ、女は犯された。陸軍参謀総長マイルズ将軍(注2)は、この虐殺をアメリカ史上最も嫌悪すべき犯罪とと指摘した」
これがラストナレーションである。
(人生論的映画評論/ソルジャー・ブルー('70) ラルフ・ネルソン <「前線離脱」⇒「銃後彷徨」⇒「前線拒絶」という流れの中で破綻した「インディアン無罪論」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/70_29.html
アメリカン・インディアン問題の本質において最低限の描写を提示することなく、ニューシネマの軽快なステップで、ユーモアをたっぷり交えた「ラブストリー含みのロードムービー青春譚」の基調音の物語構成を、「変容する風景」への劇的転換の効果をマキシマムにしたこと。
そこに、相も変わらず、風景の劇的変容による「驚かしの技巧」が踊っていたのだ。
何より、物語をあまりに単純化し過ぎている。
これは、「良心的二等兵」としてのホーナスの心理を追っていくことで判然とするだろう。
それを要約してみよう。
それは、「前線離脱」→「銃後彷徨」→「前線拒絶」という風な流れで把握することができるだろう。
「前線離脱」とは、自分が所属する騎兵隊が全滅することで、婚約者に会いに行くクレスタと二人だけの状態になって、その役割を担うために阿修羅の前線を離脱する行程である。
それを私は、「逃げた」という言葉で簡潔に表現したい。
次に「銃後彷徨」とは、クレスタを婚約者の元に送り届ける使命を持ちながらも、その行程の本質が、その日を満たすに足るミニマムの「食」の問題や、インディアンからの奇襲のリスクを負う性格から見れば、まさしく、「銃後彷徨」と表現するのが相応しいと思われる。
それを私は、「聞いた」という言葉でまとめてみた。
この「聞いた」という意味の内実は、2年間、シャイアン族との決して不愉快ではない共存を強いられていたクレスタの口から、ダイレクトに「インディアン無罪論」を聞くことによって、かつて、自分の父をインディアンに殺害され、瞋恚(しんい)の炎(ほむら)に燃えていた自我のうちに、クレスタに対する否定的感情含みの反応によって自我武装する防衛機構が、内的に要請されていく心理を示すものである。
これについては、クレスタとの重要な会話があるので再現してみる。
シャイアンと銃の取引をする男と、二人が出会ったときの会話。
「銃を売った?」とホーナス。
「シャイアンに?」とクレスタ。
「我々が殺されるのを、なぜ、止めない」
「私にはできないことよ」
「仲間だぜ」
「仲間はニューヨークにいるわ」
「自分の国だ」
「どこが?ここはインディアンの国よ!」
「じゃあ、なぜシャイアンと一緒にいない?」
「それなら言うわ。言葉も服も食べ物も違うからよ。私はシャイアンに生まれたんじゃないわ。だけど、シャイアンはね、血に飢えた兵隊よりも、ずっと人間らしいわ」
「君は反逆者だ」
「そう思えばいいわ」
クレスタを「反逆者」とラベリングすることで保持される「認知の継続」によって、自我を再武装する防衛機構が内的に要請されていく心理が、そこに垣間見えたのである。
最後に「前線拒絶」とは、クレスタを婚約者の元に送り届ける困難なプロセスのうちに、この「良心的二等兵」がアイバーソン大佐指揮下の騎兵隊に吸収されていく行程の後に出来した、「サンドクリークの虐殺」という由々しき前線への自己投入の拒絶を意味する。
二人がそこで見たのは、シャイアン族への襲撃計画であった。
その情報を婚約者から聞き知ったクレスタは、自分が世話になっていたシャイアン族のキャンプに報告に行くが、時既に遅く、騎兵隊の襲撃は開かれていった。
このラスト15分間の凄惨な殺戮の状況は、まさに「地獄の前線」だった。
「敵はこの世で最も忌むべき輩だ。心して闘いに臨め。殺害、強姦、拷問、彼らの毒牙にかかった同胞は数限りない。その彼らに慈悲は無用だ。それを忘れるな!」
これが、アイバーソン大佐の殺戮の号令。
この殺戮の号令を遂行する騎兵隊の将兵たち。
ホーナスはそこで、阿鼻叫喚の地獄絵図を視界に収め、彼の中の「騎兵隊正義論」は一気に破綻し、立ち所に自壊していくのだ。
それを私は、「見た」という言葉で把握してみた。
これは、まさに「銃後彷徨」のキーワードであった、クレスタから聞いた「インディアン無罪論」が事実であることを見せつけられて、「良心的二等兵」は「前線拒絶」を身体化するのだ。
「バカ野郎!」とホーナス。
二等兵の「青二才」に屈辱的な一言を浴びせられたのは、本隊の指揮官であるアイバーソン大佐。
「反逆罪」を決定付けたこの一言が、彼の「前線拒絶」を集約する叫びとして刻まれたのである。
「全部隊の将校、及び兵士に心からの尊敬と信頼を持って、任務を完遂したことを称賛する。諸君は本日、アメリカには新たなる安住の地をもたらし、インディアンには忘れ得ぬ教訓を与えた。諸君は終生、今日という日を誇りに思うがいい。アイバーソン大佐の指揮下で戦ったことを」
この言葉は、「サンドクリークの虐殺」を終焉させるものとして、指揮官から放たれたものだ。
そして、「反逆罪」に問われたホーナスが、引き立てられて行くラストシーンの構図に、それを見守るクレスタの肯定的ストロークが放たれて映像は閉じていく。
「1864年11月29日。700名のアメリカ騎兵隊は、コロラドのサンドクリークのシャイアンの村を襲った。インディアンは降伏の白旗を掲げたが、騎兵隊は攻撃を開始。500名を虐殺した。その大部分は女子供だった。100名以上は頭皮を剥がされ、手足を切り取られ、女は犯された。陸軍参謀総長マイルズ将軍(注2)は、この虐殺をアメリカ史上最も嫌悪すべき犯罪とと指摘した」
これがラストナレーションである。
(人生論的映画評論/ソルジャー・ブルー('70) ラルフ・ネルソン <「前線離脱」⇒「銃後彷徨」⇒「前線拒絶」という流れの中で破綻した「インディアン無罪論」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/70_29.html