「脆弱性」―― 心の風景の深奥 或いは、「虚偽自白」の心理学

 こんな状況を仮定してみよう。

 まだ眠気が残る早朝、寝床の中に体が埋まっていて、およそ覚醒とは無縁な半睡気分下に、突然、見たこともない男たちが乱入して来て、何某かの事件の容疑事実を告げるや、殆ど着の身着のままの状態で、有無を言わさず、そのまま自分の身柄が所轄の警察署に連行されてしまった。

 そのとき心の中を、経験したことのない事態に直面したときの恐怖感が走って、防衛的自我が有効で合理的な行動の指針を繰り出せずに、交感神経系の亢進によっていたずらに血管が収縮し、心臓の鼓動が騒いで止まないのだ。不随意の自律神経系が乱れて、状況の見えない流れの中に、不安と恐怖の心理だけが内側を支配してしまっているようである。

 その日、予定していた行動スケジュールはすっかり反故にされ、昨日もそうであったような日常性の営みから完全に引き離された自分が、そこにいた。

 面識のない何人もの刑事たちに囲まれた狭い取調室の中で、自分とは全く無縁な事件の容疑者にされたという事実の重量感を実感できないまま、権力的に捕捉された現実が物語る恐怖感に怯(おび)える心が、無秩序に暴れてしまっているのだ。

 それでもその時点での恐怖感は、未知のゾーンに拉致された者の感情ラインの枠内にあって、なお無実の自分の潔白が証明できる一縷(いちる)の希望の稜線が、朧(おぼろ)げに、不安定にダッチロールする視界の内に収まっていた。

 ところが、取調室の澱んだ空気に囲繞されて、自分と正対する屈強な男が吐き出す言葉の連射は一貫して暴力的であり、自分以外に犯人がいないと断定する口調は、時の経過と共に激越になり、攻撃性を増強させていくばかりである。

 取り調べの時間が間断なく継続されていく感覚すら鈍麻し、無実を訴える自分の弱々しいアピールは絶え絶えになり、全く先の見えない暴力的な展開の恐怖のみが記憶の表層に張り付き、自分の心と体を隙間なく包括する異様な空間を仕切ってしまっているのだ。

 こんなリスキーな内的状況が、何時間続いたであろうか。夜になっても食欲が破壊され、全人格的に疲弊し切っている自我が震えている。

 そこに形成されたブルーのスポットは、まさに外界から遮断された、出口の見えない「箱庭」だった。

 その「箱庭」の中に成立した関係性の本質は、「権力関係」と呼ぶ以外にない爛(ただ)れ切った様態である。

 捜査員という名の筋骨隆々の男たちとの間で形成された「権力関係」が、時間の虚しい経過と共に、いよいよ露わな暴力性を剥き出しにしてきたとき、寄る辺なき自我は少しずつ、卑小な存在性の脆弱さの被膜を剥(は)いでいくのだ。

 自らを僅かでも有利にし得る選択肢を全く持ち得ない心理的状況下で、「極道」と思しき恐怖を押し出してくる男たちによって、スラング含みで一方的に突きつけられる証拠の数々、そこに混じっている目撃情報や不穏当な噂話など、一切が自分にとって預かり知らない何かであった。

 心身ともに激しい疲労感が突き上げてきて、もう絶え絶えの自我は千切れかかっている。「早く楽になりたい」―― そんな思いが意識の領野を隅々まで支配してきて、何か得体の知れない異界の時間に誘われていくようだった。

 そんなとき、突然、自分に正対する大男が、空間を劈(つんざ)くような音声を轟(とどろ)かせた。

 自分の身内や知人の絶望感を伝える、信じ難き情報を含むその音声の内実には、得体の知れないほど未知のゾーンに持っていかれた脆弱な自我の、そこにぶら下がる薄膜な理性を千切るほどの、一欠片(ひとかけら)の武装を解体させる激甚な破壊力が渦巻いていて、とうとう、「もう、どうなってもいい」と観念させるまでの時間への距離が最近接した瞬間を開いてしまったのである。

 そこで開かれた時間が垣間見せた、一時(いっとき)の解放感がどれほどの継続力を持ち得るか否かについて、全く斟酌(しんしゃく)する一縷(いちる)の余裕すらなく、自分であって自分ではないと思わせる奇妙な意識のダッチロールの中で、いつしか自分を囲繞する男たちのナビゲーションをなぞっていくことだけが、この小さくも、それ以外に縋るべき何ものもない解放感を、ほんの少し延長させ得る方略であるという朧(おぼろ)げな知覚となって、それが迷妄の険しい森に繋縛(けいばく)された脆弱な自我の、統治困難な深い闇を抜ける水先案内となっていくのか。

 何もかも了解不能な事態の襲来の前で、もう自分に残された、一本の細い蜘蛛の糸に縋る以外にないのだ。この糸は誰にも渡せない。自分を地獄から脱出させてくれる、唯一の蜘蛛の糸 ―― それが、何か澱んだ空気感が少し柔和になったように思える、もうそこにしか存在しないだろう、世界の風景を変色させていくこの状況を手放さないことである。

 所有の実感が全く掴めない心が絶え絶えになって、宙を浮遊していた。その浮遊の時間の中で吐き出した言語や感情が、黒魔術の誘(いざな)いに操られていくかの如く、「魂の緒」が切れて幽体離脱していくようだった。

 恐怖対象だった男たちが、微(かす)かに頬を濡らしていた。自分の開いた世界の逢着点が、そこにあったのか。

 もう、いいんだ。もう、終わったんだ。これで眠りにつけるだろう。楽になれるだろう。それだけが自分が今、絶対的に必要とするものだったのだ。


 ―― 以上の状況設定は、「虚偽自白」の心理学、とりわけ、「なぜ無実の人が自白するのか」という由々しきテーマについて、その仮想のイメージをスケッチしたものである。

 ここで重要なのは、「自白」する者の自我の「脆弱性」である。

 正確に言えば、未知の恐怖のゾーンの中で、ごく普通のレベルで武装しているに過ぎない自我が裸にされて、その「脆弱性」が露わにされたとき、もうそこには自らを守るべき手立てを一切失って、絶え絶えになった自我が拠る、その安寧の対象の何ものもなく、極限的な心身の疲弊の果てに自分が関与しない事件の供述を開くほどに内部統制が機能しなくなり、自我を覆う鍍金(めっき)の鎧(よろい)が破壊されてしまうという事実性の重量感である。

 この心理状況を説明すると、以下の流れの中で把握されるだろう。

 ① 権力機関に捕縛された時点で、既にそこは、自分の意思で支配できない「箱庭」が形成されている。
      ↓
 ② その「箱庭」で形成された人間関係は、紛れもなく「権力関係」以外の何ものでもないだろう。
     ↓
 ③ 「箱庭」で形成された権力関係の内には、選択肢が一つしかない「事実」を強いる「状況支配者」と、それ以外の選択肢を持ち得ない「状況服従者」という単純な関係構図が成立する。
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 ④ 「状況支配者」は自らが所有する余りある時間(最長勾留期間・23日間)を駆使して、「状況服従者」の身体の自由を拘束した上で、その心身が疲弊の極みに達するまで、その関係(「権力関係」)を恣意的に継続させていく。
     ↓
 ⑤ 疲弊の極みに追い込んだ「状況支配者」は、「状況服従者」の自我を文字通り「完全服従」させる目的で、「状況服従者」に対して、身内や友人との関係途絶の現実を認知させることなどによって、置かれた状況における「精神的孤立感」を極限にまで高め上げていく。
     ↓
 ⑥ 「状況服従者」の「精神的孤立感」がピークアウトに達したとき、そこで生まれた絶望感、即ち、「もうどうなってもいい」という気持ちを随伴した、「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」の感情が形成されていく。それは単に、「苦痛の状況」それ自身ではない心理であるという認識こそが重要である。
     ↓
 ⑦ 「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」の感情が形成されたとき、「自白すれば楽になる」(「安寧化のテクニック」)、「自白しないと起訴された際の罪が重くなる」(「最大化のテクニック」)等の硬軟織り交ぜた取り調べのテクニックによって、「状況支配者」は「状況服従者」の自我を「完全服従」し、「虚偽自白」に追い込んでいく。
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 ⑧ 「虚偽自白」によって、「一時(いっとき)の解放感」を得た「状況服従者」は、情感を込めた「状況支配者」の同情的感情の吐露(落涙したり、感動したり、自分の気持を寄せたり、等々)などに対して、しばしば、自分の「虚偽自白」による「空洞感」を埋めるに足るケースも生まれる。
     ↓
 ⑨ ここから、「供述書」という名の共同作業の過程が開かれていく。

 以上が、「虚偽自白」への心理プロセスであると考えるが、勿論、このプロセスには個人差がある。それでも、「箱庭」、「権力関係」、「状況支配者」、「状況服従者」、「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」、「精神的孤立感」、「一時(いっとき)の解放感」等という言葉で表現される文脈には、多くの場合、相当の共通点があると言えるだろう。

 結局、以上のような状況下では、自我の「脆弱性」を晒してしまう確率が高くなり、自分の力の及ぶ範疇を越えた、「取調べ」という名の「権力関係」の堅固な「前線」にあって、「虚偽自白」以外の選択肢を持ち得ない時間の、その圧倒的な継続性によって分娩された「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」こそが、このような由々しき事態の心理的母胎になるということである。

 自我の「脆弱性」を晒さずに極限状況を抜けていくには、「強靭な信念・信仰」などによる「恐怖支配力」=「胆力」の堅固な内部構築が不可欠であると思われる。それほどに、以上のような状況に捕捉されてしまったら、「極限的な苦痛の終りの見えない恐怖」に搦め捕られてしまう確率が高いということである。

 私たち自身が普通に考えている以上に、人間の心は合理的に動けず、信じ難き誤謬を簡単に犯し、その修正も困難であるほどに脆弱な生き物であるという外にないのだ。

(「心の風景/「脆弱性」―― 心の風景の深奥 或いは、「虚偽自白」の心理学 」より)http://www.freezilx2g.com/2009/07/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)