ショートカッツ('93)  ロバート・アルトマン <「関係濃度の希薄性」という由々しき問題への考察>

 「人間が害虫を殺すか、害虫が人間を殺すかの戦いです」というヘリコプターの殺虫剤散布で始まり、ロサンゼルス地震で閉じていく本作の中で、「死」という「非日常」の極点を基軸にして、そこに最近接した者の 「日常性」の様態を描く幾つかのエピソードのうちに、基幹的なメッセージが包含されていたと言えるだろう。

 ここで取り上げる物語の中で、痛ましくも、「一篇の人間ドラマ」の印象を観る者に与えるエピソードは、児童の交通事故に端を発した関係の交叉である。

 本稿では、児童の交通事故に端を発した関係の交叉に焦点を当てて、本作の構造に言及したい。

 発端は、一つの目立たない交通事故だった。

 円満な夫婦の愛児が、通学途中に車に撥(は)ねられたのである。

 撥ねたのは、ファミレスで働く既婚の女性ドラバ―。

 呑んだくれの亭主に纏(まと)わりつかれる彼女は、自分が起こした事故に慄(おのの)くが、撥ねられた児童が「大丈夫」と言って、歩き出していく姿を確認することで安堵するものの、事故現場では精一杯のモラルを体現していた。

 普段から、「知らない人と話すな」と躾られている児童は、女性ドラバ―を無視して帰宅したのである。

 帰宅していく児童を遣り過ごす行為は、普通の大人の振舞いの範疇にあるだろうが、残念ながら、彼女には、児童が事故で受けたダメージの後遺症についての理解が決定的に不足していた。

 それでも、彼女の中に不安が残る。

 クラッシュの衝撃を感受していたからだろう。

 そのため、彼女は事故について、呑んだくれの夫に話すことで、せめてもの不安の払拭を図ろうとしている。

 この危うい情報に関わる「秘密の共有」は、その後も暫くは、夫婦の意識を捕捉していた。

 一方、車に撥ねられた児童本人のこと。

 自宅に戻った児童は、ベッドに横たわっていた。

 少しずつ、事故の後遺症が現出してきたのである。

 帰宅した児童の母(画像の女性)であるフィニガン夫人は、未だ会話の可能な我が子から事故の説明を聞き、慄然とした。

 しかし、「運転していたのは女の人」と言うだけで、本人から正確な情報を得られない。

 不安を募らせるフィニガン夫人は、テレビキャスターを勤める夫(冒頭で、ヘリコプターによる殺虫剤散布を報じるキャスター)に連絡し、病院に連れて行った。

 病院の担当医は、フィニガン夫人の不安を宥(なだ)めるように、「児童の意識が回復すれば安心」という見立てをしていたが、軽傷(「小さな傷」のイメージ)であるという見込みが重篤化していく経緯の中で、夫婦の「日常性」の破綻が顕在化されていく。

 フィニガン夫婦は、「死」という「非日常性」の極点に最近接してしまうのだ。

 この間、孫の見舞いという口実で、フィニガン氏の実父(画像の男性)が病院を訪れる。

 30年ぶりの再会である。

 折り合いの悪い父子関係の様態が、そこに垣間見える。

 児童の祖父でもある彼は、息子に対して、妻との過去の真実を語ることで、父子関係の亀裂の修復を図ろうとするものの、我が子の生命の危機の只中にあるフィニガン氏には、父の告白を断片的に拾うのが精一杯で、殆ど妥協の限界点に達していて、苛立ちが隠せないのだ。

 そして、我が子の死。

 「非日常性」の極点に達した夫婦には、事故以前に構築されていた「幸福家族」という、「安定」に向かう 「日常性のサイクル」が切断されて、そこにはもう、「非日常」が内包するネガティブな感情が突沸するだけだった。

 不幸が現実化した祖父は、「非日常性」の極点が突沸する空気に弾き出されて、その場を立ち去っていった。

 祖父は、〈状況〉から置き去りにされたのだ。

 児童の死は、予測しない波紋を生み出した。

 何者かが、我が子を喪ったフィニガン夫人のもとに、児童を揶揄するストーカー紛いの電話をかけてきたのである。

 夜間に集中する悪戯電話の張本人は、あろうことか、見知りのケーキ屋だった。

 その事実を察知したフィニガン夫妻は、早速、ケーキ屋に乗り込んだ。

 彼らは、遣り切れない思いの一切を、件のケーキ屋に吐き出したのである。

 フィニガン夫妻の愛児が死んでも、執拗に悪戯電話をプッシュし続けたケーキ屋は、事実を知らされるや否や、自分の犯した罪を恥じ、夫妻の前で深々と謝罪した。

 ケーキ屋は、バースディケーキの注文がキャンセルされたことに立腹し、彼なりにストレスを解消していたのである。

 そして、もう一人、児童の死に衝撃を受けた人物がいる。

 フィニガン家の隣家に住む、チェリストの女性である。

 ジャズ歌手の母と折り合いが悪い彼女は、虚構の家族の空虚感の中で、その本来の音楽的感性の高さの故か、暗鬱な表情が映像の中で拾われていた。

 児童の死によって情緒を極点まで不安定にさせた彼女は、自宅で自死するに至ったのである。

 あろうことか、彼女は、「死」という「非日常性」の極点に自己投入してしまったのだ。

 最後に、もう一度、事故の加害者である女性ドライバーの夫婦の話に戻す。

 当初こそ、事故の不安に怯えていた彼女だが、「あの子は大丈夫だった」という「認知の不協和」(矛盾解消のために、自分に都合よく合理化すること)を処理することで、本来の「日常性のサイクル」を復元させていた。

 呑んだくれの亭主との間に入った関係の亀裂も、いつしか復元させていて、見かけは「円満夫婦」の印象を顕在化させていたのである。


(人生論的映画評論/ショートカッツ('93)  ロバート・アルトマン  <「関係濃度の希薄性」という由々しき問題への考察>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/93_31.html