カルトの罠

 「カルトの罠」は、「恐怖心」と「依存心」にある。

 前者のコアは、ハルマゲドンがやって来るぞという恫喝であり、後者のコアは、この方(尊師)が全ての苦難から解き放つ救世主だから教えを乞いなさい、という安眠の誘(いざな)いである。

 ともあれ、人が以上の心理に最近接する抵抗力の弱い稀有な瞬間に、絶妙なタイミングで癒されるような心地良い響きが自我に届けられれば、それに抗って、定位置に固執することは難しい。定位置の揺らぎの感覚こそが自我に空洞を作ったのであり、その継続的な空洞感が内側に重しを加圧する感覚との共存臨界点は早晩やって来て、極点に達した枯渇感がカルトの誘(いざな)いに反応する心理は、補填を求める自我にとって極めて合理的なのである。

 反応の機会が全ての自我に、一応公平に与えられているのは、人間の本来的な脆さが公平に分配されている程度において真実なのだ。スーパーマンだけが、そこから自由なのである。
 
 「絶対に自分は『カルトの罠』に嵌らない」と断言する人は、「恐怖心」と「依存心」が切迫した状況の中でも醸成されにくく、定位置の揺らぎも知らず、最も辛いときでも、空洞の広がりを未だかつて経験したことのない相対的安定感の中にあって、引き続き、カルトの反応圏に拉致されにくい時間を繋いでいる幸福なる人々である。

 それは別段、特殊なラインを綱渡りしている訳ではないが、幸福の継続を保証する何ものもこの世にはない。延焼による家屋の焼失や、配偶者との別離等の不幸が連続的にヒットしてきたときに噴き上げてきた感情の激甚さは、殆ど予測困難である。心の脆さへのシビアな認知も、経験が作り出す知恵なのだ。従って、「カルトの罠」を情報の力で予防する有効性は限定的である。
 
 カルトは常に、私たちにとって未知の領域なのだ。人の脆さへの決定的なる自覚もまた、同時に未知の領域なのである。
 
 脆さを自覚できた者だけが、カルトに嵌らない。

 脆さこそ私たちの本性であり、脆さを持たないで生きていくことなど不可能であるが故に、内なる脆さと上手に付き合っていくことが決定的に大切であることを見据え、その脆さによって、極力、自己を損なうことがないように仕向ける一連の行程が、既にカルトに流れていく名状し難い思いの過半を中和してしまっているのだ。

 なお残る澱みとの共存を可能にさせる力こそ、脆さの自覚が紡ぐ何かである。我は脆い。脆いが、未だ壊されていない。しばしば壊れかかる恐怖に立ち会うが、その恐怖が再び我を立ち上げてくれもする。我の脆さが、我を突き上げるのだ。この脆さを強さと呼ぶほど、我は自信家ではない。こうしたラインを固める我に、今更、カルトの人工照明は馴染まないのである。
 
 ハルマゲドンがやって来るという。だから、一体どうしたの?

 人類が滅びるという。それが、一体どうしたの?

 日本が沈没するという。だから何なの?

 地球も人類も日本も、よくよく考えてみれば、自分と無縁に存在してしまったものだし、自分が偉そうに意見を放ったところで、意見の通りに動いてくれるものでもないし、その通り動いてしまったら、却って怖い何かでもある。

 それでも、要所要所で何かを言いたいだけの拘りを持って、その拘りが保証される空気を確認することで充足する宇宙に生きて、自分と無縁であったはずの大きな世界に糧を得た。今更、世界を蹴飛ばす駄々っ子でいるより、我が宇宙にクロスしてくる状況で、我が能力で及ぶ仕事を果たす者以外ではない。大きな世界というものは、その枠内でこそ、そこにある。

 ハルマゲドンの恐怖に捕捉されるほど、私は未だ、私の仕事を果たしていないのだ。


 【画像は、ヴィクトル・ヴァスネツォフ作「黙示録の騎士」】

(心の風景/カルトの罠 より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_26.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)