アニー・ホール('77) ウディ・アレン <自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>

 そこそこに人気のあるピン芸人(話芸で観客を笑わせる漫談家という意味で、欧米では「スタンダップ・コメディアン」と言う)の皮肉屋は、なぜか女にモテて、生活にも不自由しない中年男。

 「私を会員にするようなクラブには入りたくない。これが、女性関係での僕の気持ち・・・アニーと別れたが、未練はある。今も二人の関係とか、なぜ、それをぶち壊したかを考えている。一年前は愛し合っていたのに。でも僕は、ガックリ落ち込む性格ではない」

 そして、相当程度ペシミスティックな男の対異性観には、以上の映像冒頭シーンでの吐露に集約されるように、好悪感情が激しく、選別意識も甚だしい、極めて厄介な性格の御仁である。

 自分が特定的に選別した異性の対象人格に赴くのはOKだが、自分の誘惑に簡単に乗って来る女を受容できないと放言する極め付けの天の邪鬼、ウルトラ自己中心主義。

 卑屈さをも垣間見せるそんな放言の根柢には、自分の感情許容値の狭隘さが丸出しにされた傲岸さを露呈していると言っていい。

 「ロブスターは食べたいが、触るのは嫌だ」という男の感覚基準が、この男の性格傾向を決定づけているのだ。

 15年間も精神科医に通っている男の「病理」が垣間見られるとしたら、まさに精神科医を必要とせざるを得ないこの男の、その「病識性」それ自身によって説明できるものだろう。

 そんな男が、自分より遥かに年下の美女(アニー・ホール)に恋をして、あっという間に同棲生活に入った。

 ところが、ロブスターのエピソードに象徴されるように、ホットな感情全開のデートで会っているときは、その幻想の魔力によって存分なほど至福な思いに満たされるが、いざ物理的共存を具現するとなると、相手の欠点ばかりが気になって仕方がないという始末の悪さは、本質的にこの男が、「自分の距離の最適感覚」(パーソナルスペース)の中でしか充足できない類の、対異性観の艱難(かんなん)さを持ち合わせていることを証明するだろう。

 自分の中にあって、自分が嫌う性格を相手に見たとき、この男はその相手を絶対許容しないというような典型的なタイプの人物なのだ。

 同棲したアニーに精神科を勧め、大学の受講を勧めたにも拘らず、立ち所に悋気(りんき)するという感情を惹起させる心理的文脈は、この男が同棲相手の美女を独占的、且つ、全人格的に求めていることを露呈するものだが、それでも物理的共存を継続できない男のエゴイズムと、そこに張り付く過度な神経質ぶりがネックとなっていると把握し得る、男の自己分析は決して間違ってはいないのだ。

 別れたアニーを追って、嫌いなロスに長時間に及ぶフライトを敢行するほどに、この男は、「自分を捨てて『距離』を作った女」であるが故に彼女への全人格的価値を認知し、もう会わずにいられないという厄介な性癖。

 要するに、自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられないのだ。

 相手から求められると腰を引き、肝心のセックスもままならない。こんな男が自分のサイズに見合った女を探し出すのは容易ではないだろう。


(人生論的映画評論/アニー・ホール('77) ウディ・アレン  <自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/11/77.html