本稿では、「冷風が吹き付けてくる困難な状況下での、通風ダクト内の匍匐(ほふく)前進」という、如何にも「サスペンス映画」の醍醐味に関わる言及は避けたい。
既に多くの批評家、ファンが語り尽くしているからだ。
ここで取り上げたいのは、「人生論的映画評論」の趣旨に沿って、本作の犯罪に関わる、不安な状況下における3人の加担者たちの心理の振幅についてである。
言うまでもなく、その3人とはシャルル、フランシス、その義兄のルイである。
シャルルは5年の刑を服役した後、出獄し、カジノの売上金の強奪の計画を仲間から聞かされ、その「大仕事」を遂行するリーダーとなる根っからの「全身犯罪者」。
しかしこの「全身犯罪者」は、今では肉体をフル稼働できない老人であり、しかもこの「大仕事」の遂行には相棒が必要だった。
そこで彼が眼を付けたのは、一年間の短期間ながら、獄中生活を共にした一人の若者。
それがフランシスだった。
且つ、その「大仕事」の遂行には腕利きのドライバーと車が必要なので、フランシスの義兄のルイも「共犯者」として把握された訳だ。
フランシスの義兄の職業は自動車修理業だったのである。
詰まる所、シャルルはフランシスとルイを、初めからこの「大仕事」の遂行の共犯者として包括的に捕捉していたのである。
「全身犯罪者」としてのシャルルの人格像や心象風景を考えるとき、その内実は、映像冒頭で、出獄後の彼を丁寧にフォローするシークエンスが端的に物語っているだろう。
以下の通り。
「安月給の自由なんか、俺の性分に合わない」
これが、5年の刑を服役し、出所した直後の、バス内でのシャルルのモノローグ。
バス内での庶民の世俗話を耳にして、心の中で思わず反応したものだ。
5年後に戻った街並みはすっかり変貌していて、「今じゃ、ニューヨークだ」と嘆息するばかり。
彼を待つ若い女房に、シャルルはオーストラリアでの余生の夢を語った。
「今、俺は一生に一度のでっかいことを考えている。誰もやらなかったことをな・・・俺は余生をキャンベラで送る。大金持ちの老紳士としてな」
「でっかいこと」とは、「大仕事」のこと。
彼はもう、このような見過ぎ世過ぎによってしか生きられない人間になっていたということだ。
そんな彼が、フランシスを犯罪の実行犯に選んだのは、この青年の人格像の総体のうちに、恐らくかつての自分と同じように、もう地道な勤労生活に身を預けられない「不適応の臨界ライン」の振幅の様態を見ていたのだろうか。
或いは、単に義兄を包括した犯罪共犯者としてではなく、この種の犯罪者としての行動力と、迷いのない単純さを評価していたのかも知れない。
たった一年間の獄中仲間だが、そのような眼力がシャルルには備わっていたと思われる。
ところで、この「大仕事」の計画が具体化していく行程の中で、シャルルはフランシスに口煩いほどの忠告を浴びせ続けていた。
それは、ホテルの上客として印象付けるための、微に入り細を穿った説明である。
一切は、完全犯罪を遂行するためという大義名分があるが、それにしても相手を子供のように扱うアドバイスの本質は、紛れもなく、行動力と、迷いのない単純さを身体化するだけの「半身犯罪者」に対する、長年にわたる経験則に裏打ちされた、一級の「全身犯罪者」の確信的レクチャーであると言えるだろう。
以下の通り。
「荷物は決して自分で運ぶな。ポーターに1000フランやれ。案内されたら文句を言え。やたらに驚いたり、海を見て感激したりするな。慣れている素振りをしろ。使用人にチップをやれ。重要なのは水道管の点検口だぞ。鍵掛っていたら外しておけ。俺たちの金庫にする」
以上のような「全身犯罪者」のレクチャー通りに行動する「半身犯罪者」であったが、女に眼がない弱みを抱えたハンサムボーイの常なのか、フランシスは天井裏から屋上に抜けるために楽屋との往来の必要があり、一人の美女ダンサーと近づき、たちどころに懇ろになっていく。
その際、本気で女に惚れたのか、時間を厳守できないハンサムボーイの態度に、シャルルが厳しい口調で戒めた。
「一分のズレは、一分では戻せん。それで何年も喰らうからな」
その忠告の内実は全て犯罪の合理性に叶っていて、まさにシャルルはこのような「大仕事」を遂行する「大胆さ」のみならず、そこに「緻密さ」、「慎重さ」をも包括する人格像だったのである。
この「大胆さ」、「緻密さ」、「慎重さ」の3要素を内包するその1点にこそ、シャルルという人格像の本質が、まさに「全身犯罪者」とネーミングする以外にない所以なのだ。
(人生論的映画評論/地下室のメロディー('63) アンリ・ヴェルヌイユ <「全身犯罪者」 ―― その圧倒的存在感と、それによって相対化される「共犯者」の人格像>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/63.html
既に多くの批評家、ファンが語り尽くしているからだ。
ここで取り上げたいのは、「人生論的映画評論」の趣旨に沿って、本作の犯罪に関わる、不安な状況下における3人の加担者たちの心理の振幅についてである。
言うまでもなく、その3人とはシャルル、フランシス、その義兄のルイである。
シャルルは5年の刑を服役した後、出獄し、カジノの売上金の強奪の計画を仲間から聞かされ、その「大仕事」を遂行するリーダーとなる根っからの「全身犯罪者」。
しかしこの「全身犯罪者」は、今では肉体をフル稼働できない老人であり、しかもこの「大仕事」の遂行には相棒が必要だった。
そこで彼が眼を付けたのは、一年間の短期間ながら、獄中生活を共にした一人の若者。
それがフランシスだった。
且つ、その「大仕事」の遂行には腕利きのドライバーと車が必要なので、フランシスの義兄のルイも「共犯者」として把握された訳だ。
フランシスの義兄の職業は自動車修理業だったのである。
詰まる所、シャルルはフランシスとルイを、初めからこの「大仕事」の遂行の共犯者として包括的に捕捉していたのである。
「全身犯罪者」としてのシャルルの人格像や心象風景を考えるとき、その内実は、映像冒頭で、出獄後の彼を丁寧にフォローするシークエンスが端的に物語っているだろう。
以下の通り。
「安月給の自由なんか、俺の性分に合わない」
これが、5年の刑を服役し、出所した直後の、バス内でのシャルルのモノローグ。
バス内での庶民の世俗話を耳にして、心の中で思わず反応したものだ。
5年後に戻った街並みはすっかり変貌していて、「今じゃ、ニューヨークだ」と嘆息するばかり。
彼を待つ若い女房に、シャルルはオーストラリアでの余生の夢を語った。
「今、俺は一生に一度のでっかいことを考えている。誰もやらなかったことをな・・・俺は余生をキャンベラで送る。大金持ちの老紳士としてな」
「でっかいこと」とは、「大仕事」のこと。
彼はもう、このような見過ぎ世過ぎによってしか生きられない人間になっていたということだ。
そんな彼が、フランシスを犯罪の実行犯に選んだのは、この青年の人格像の総体のうちに、恐らくかつての自分と同じように、もう地道な勤労生活に身を預けられない「不適応の臨界ライン」の振幅の様態を見ていたのだろうか。
或いは、単に義兄を包括した犯罪共犯者としてではなく、この種の犯罪者としての行動力と、迷いのない単純さを評価していたのかも知れない。
たった一年間の獄中仲間だが、そのような眼力がシャルルには備わっていたと思われる。
ところで、この「大仕事」の計画が具体化していく行程の中で、シャルルはフランシスに口煩いほどの忠告を浴びせ続けていた。
それは、ホテルの上客として印象付けるための、微に入り細を穿った説明である。
一切は、完全犯罪を遂行するためという大義名分があるが、それにしても相手を子供のように扱うアドバイスの本質は、紛れもなく、行動力と、迷いのない単純さを身体化するだけの「半身犯罪者」に対する、長年にわたる経験則に裏打ちされた、一級の「全身犯罪者」の確信的レクチャーであると言えるだろう。
以下の通り。
「荷物は決して自分で運ぶな。ポーターに1000フランやれ。案内されたら文句を言え。やたらに驚いたり、海を見て感激したりするな。慣れている素振りをしろ。使用人にチップをやれ。重要なのは水道管の点検口だぞ。鍵掛っていたら外しておけ。俺たちの金庫にする」
以上のような「全身犯罪者」のレクチャー通りに行動する「半身犯罪者」であったが、女に眼がない弱みを抱えたハンサムボーイの常なのか、フランシスは天井裏から屋上に抜けるために楽屋との往来の必要があり、一人の美女ダンサーと近づき、たちどころに懇ろになっていく。
その際、本気で女に惚れたのか、時間を厳守できないハンサムボーイの態度に、シャルルが厳しい口調で戒めた。
「一分のズレは、一分では戻せん。それで何年も喰らうからな」
その忠告の内実は全て犯罪の合理性に叶っていて、まさにシャルルはこのような「大仕事」を遂行する「大胆さ」のみならず、そこに「緻密さ」、「慎重さ」をも包括する人格像だったのである。
この「大胆さ」、「緻密さ」、「慎重さ」の3要素を内包するその1点にこそ、シャルルという人格像の本質が、まさに「全身犯罪者」とネーミングする以外にない所以なのだ。
(人生論的映画評論/地下室のメロディー('63) アンリ・ヴェルヌイユ <「全身犯罪者」 ―― その圧倒的存在感と、それによって相対化される「共犯者」の人格像>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/08/63.html