野菊の如き君なりき('55) 木下惠介<「純愛」が内包する情感系の脆弱さ>

 本作の政夫と民子が、彼らの「純愛」を貫徹できなかったのは、必ずしも時代状況の封建的な制約下にあって、外部圧力に屈したという一面だけで把握するだけでは不充分であろう。

 何よりも、彼らの「純愛」の様態が脆弱であったこと。

 その未成熟さが、彼らの「純愛」を貫徹できなかった最大の要因であると、私は考えている。

 彼らは、単に外部圧力に屈したのではない。

 彼らの恋愛感情の未成熟さが、外部圧力を崩し切れなかったのである。

 ここに、印象的なシークエンスがある。

 政夫の母の言い付けで、2人が私有の山に綿採りに出かけたときの会話の一端である。

 「どうして、政夫さんより年が多いんでしょう。私、本当に情けなくなる」
 「民さんはおかしなことを言うんだな」

 2人は綿採りの協同作業を通して、多くのことを語り合うが、この短い遣り取りのうちに、既に重要な心理の乖離を読み取れるのだ。

 2人の年齢は、15歳と17歳。

 この年齢差が重要なのだ。

 裕福な地主の息子である政夫は中学生になり、寮生活に入ってしまうことで、17歳の民子が地元に取り残されてしまうのである。

 当然の如く、政夫が寮生活に入っている間は、二人の「純愛」は物理的停滞を来たしてしまうのだ。

 この物理的停滞を補完するには、外部圧力に耐え切るような、相当程度の心理的な強靭さが求められるだろう。

 この時間を徒(いたずら)に延長させては、関係が自我の内側から劣化してしまうに違いない。

 二人の「純愛」が、「恋愛」に成長する余地が残されなくなるのだ。

 そのことは、二人の結婚が殆ど実現不可能な状況に置かれてしまうことを意味するのである。
 
 民子には、それが理解できている。

 それが、「どうして、政夫さんより年が多いんでしょう。私、本当に情けなくなる」という、民子の吐露になったのだ。

 しかし、15歳の政夫には、その意味が理解できないのである。

 それでも、民子を思う政夫の「純愛」の感情は継続されている。

 と言うより、この綿採りの一件を通して、少年の感情は沸点に達したのである。

 「僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心は民さんと離れたくはない。民さんは自分の年が多いのを気にしているようだけど、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんと離れたくない・・・僕は民さんの思う通りになるつもりですから、民さんも、そう思っていて下さい」

 これは、政夫が故郷を離れる際に、民子に宛てた手紙。

 この手紙を、嗚咽の中で繰り返し読む民子が、そこにいた。

 17歳の彼女は、この手紙を拠り所に生きていこうとするが、しかし二人の「純愛」の発展的形成が困難な状況に陥るであろうという事態をも、明瞭に予見していたはずなのである。

 現実に、事態は、民子が最も回避したい状況になっていくことで、この悲恋の「純愛」物語は、観る者を落涙させずにはおかない括りとなって、静かに閉じていった。

 そんな「純愛」物語を、回想シーンで懐古する手法のうちに、ノスタルジアによってオブラートに包み、特定的な過去の「苦い記憶」を相対化し切ってしまったのである。

 本作の回想シーンが、楕円の切り取りの中で表現されていたのは、辛い過去の「苦い記憶」を、今や、単に忘れ難い「追憶」として存在する心理効果によって「浄化」(注2)させるためだったのだ。


(人生論的映画評論/野菊の如き君なりき('55)  木下惠介<「純愛」が内包する情感系の脆弱さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/01/55.html