ベティ・ブルー 愛と激情の日々('83) ジャン=ジャック・ベネックス <対象人格の包容力によってもカバーできない、「ディストレス」による破壊的衝動の暴発>

  映像の基本骨格とも言えるベティのキャラクターは、「愛と激情の日々」版(122分)の、冒頭の25分間の中で余すところなく提示されている。

 海辺のバンガローの一つを借りて生活するゾーグは、突然出現した奔放な少女ベティと意気投合し、セックスに明け暮れる日々を耽溺する。

 「一週間前、ベティと出会い、毎日セックスした。嵐の前触れだった」(冒頭でのゾーグのモノローグ)

 海辺のバンガローの家主にセックスを覗かれたことから不満を持ったベティは、数百軒分のペンキ塗りの仕事を請け負った事実を知らずに、一軒目のペンキ塗りに必死に取り組み、完遂させた満足感で、二人でポーズを決めて記念撮影した。

 ところが、再び家主が現われ、請け負った仕事の実状を知って、ベティは大暴れするのだ。

 「見るがいい。これが返事よ。車に化粧したわ」

 家主の車に、ペンキを吹き掛けたのである。

 このシーンで重要なのは、請け負った仕事の実状を知らせなかったゾーグに対してではなく、家賃代りに仕事を請け負わせた家主に対して怒りをぶつけたことにある。

 そして、怒りをぶつける手段が、車にペンキを塗るという直接行使であったこと。

 このベティの直接行使の心理的背景にあるのは、セックスを覗かれた家主に対する遺恨によって形成された「生理的嫌悪感」と、一軒のバンガローのペンキ塗りの作業を完遂させた「共有的達成感」や、自己満足感が台無しにされたという感情的反発であると言えるだろう。

 「イカレてる!」と捨て台詞を残して去って行った家主への感情的反発が、今度はその作業の概要を説明しなかったゾーグに向けられていく。

 直接的には、大人の対応を結べないベティに対する、ゾーグの不満の吐露が契機となったが、そのことがベティの逆ギレを生み、感情爆発を噴き上げていったのだ。

 「男は皆、ロクデナシよ。殺してやる!あんな男に媚びへつらって、あなたの才能は、一体何なの?」
 「人間は皆、同じだ!僕らも妥協が必要だ!愛の巣を失いたくない」
 「哀れな男!」

 ベティはこう叫んで、ゾーグのバンガローにある家財を外に捨ててしまうのだ。

 このシークエンスでのベティの行動原理は、極めて単純であることが分る。

 彼女の行動原理は、明らかに、「損得原理」による現実原則的な振舞いよりも、遥かに、「快不快の原理」を起動点にする幼児的行為であることが判然とするのである。

 そこには、「今」、「自分が抱える不快感情」に対して、ストレートに反応する性格傾向が露呈されている。

 そして興味深いのは、そんな彼女の感情爆発が、「一つの発見」によって簡単に収拾されてしまうという行動傾向である。

 即ち、今まで誰にも見せたことのないゾーグの小説の原稿を発見したベティが、それに関心を持ち、一気に完読した挙句、「あなたは才能があるわ」と絶賛するや、劇的な感情変容のうちに自己完結するという件(くだり)である。

 要するに、ベティは自分の感情に対して率直に反応し過ぎるのだ。

 この行動原理は、自我の未成熟を検証する幼児的性向以外ではない。

 未だに、「損得原理」で武装できない幼児的自我と共存する人格像が露わにされているのである。

 ゾーグの未発表の小説の発見によって感情爆発が収まってしまうのは、ご馳走を出されて機嫌が良くなる子供の発想と同じであると言っていい。

 私たちはこのような性格傾向を持つ大人に対して、時には、「純粋」・「純心」などという形容を付与するが、ベティのケースもまた、それに当て嵌まるだろう。

 「ベティは僕の最初の読者だった。沈黙が訪れた。僕は30歳にしてようやく、幸福の味わいを知った」(ゾーグのモノローグ)

 ところが、ベティの感情爆発は、この海辺のバンガローにあって、遂にピークアウトに達してしまうのだ。

 三度(みたび)、家主がゾーグのバンガローにやって来て、殆ど予約されたかのようなベティとの直接対決が開かれた。

 彼女は家主を二階から突き落としたばかりか、あろうことか、ゾーグのバンガローに火を点けて全焼させてしまったのだ。

 ベティとゾーグが濃密に共存した海辺のバンガローの生活は、こうして閉じていったのである。

(人生論的映画評論/ベティ・ブルー 愛と激情の日々('83)  ジャン=ジャック・ベネックス <対象人格の包容力によってもカバーできない、「ディストレス」による破壊的衝動の暴発>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/83.html