ギルバート・グレイプ('93)  ラッセ・ハルストレム <「埋葬」と「再生」、或いは、紛う方ない「若き父性」の立ち上げ>

 1  移動への憧憬と定着への縛り



 「エンドーラ。僕らの住む町だ。冴えない町なんだ。いつも同じ表情で何も起こらない。僕の働く食料品店。今や、国道沿いのスーパーに客を取られてしまった。これが我が家。パパが建て、今は僕が修理を受け持つ。弟の寿命を10歳と言った医者たちは、その後、“いつでもあり”に訂正した。長く生きて欲しい日も、そうでない日もある。姉のエイミーは母親役。小学校の食堂で働いていたが、去年、火事で全焼した。妹のエレンは15歳。・・・兄のラリーは家を出た。そしてママ。かつては評判の美人だった。17年前にパパが死んでから、女手で頑張った。挙句に、こんな状態だ。7年間、外出していいない。僕はギルバート・グレイプ

 これが、冒頭のナレーション。

 17年前の父の死は、地下室での縊首だった。

 その衝撃で、この家族の母親は、一日中食べ続けた結果、200キロを優に越すほどの異常な肥満状態になり、今や、家の中での移動もままならない。

 それが、「挙句に、こんな状態」の意味である。
 
 この母の過食症は、「神経性大食症」と称される事実で判然とするように、夫の縊首という深刻なトラウマを抱えた時間を延長させた結果であって、紛れもなく、「摂食障害」という心理的な原因に起因する病理と言っていい。

 そんな母を、「浜に打ち上げられた鯨」と自嘲気味に言い放つ、ナレーションの主であるギルバート。

 寿命が10歳と宣告された弟は、給水塔に登る悪癖を持つ、18歳の誕生日を間近に控えた少年で、その名はアーニー。

 毎年、国道を通るトレーラーの隊列を見るのが好きな知的障害者である。

 このトレーラーの隊列だけが、二人が外部世界と交叉する唯一の接点なのだ。

 外部世界と交叉する、この冒頭のシーンの中に、「移動への憧憬と定着への縛り」という、本作のテーマのエッセンスが内包されている。

 以下、外部世界と交叉することが禁じられた若者の、「磨滅」とも言える心象世界を描いた、本作のストーリーラインをフォローしていこう。



 2  「留め金で固定されている」青年の磨滅の〈現在性〉



 本作は、主人公に感情移入できることが、観る者に「感動」を保証する最低限の「ルール」である事実を証明する、癒し系映画の典型例のような一篇。

 観る者に感情移入させる対象人格は、言うまでもなく、ギルバート・グレイプ

 本作の主人公の青年である。

 本作のの原題は、「What’s Eating Gilbert Grape」。

 「何が、ギルバート・グレイプを悩ませているのか?」。

 或いは、「何が、ギルバート・グレイプを磨滅させているのか?」というような意味である。

 あまりにストレートで、説明的な原題の稚拙さが気になるが、ここでは余計な言及は回避しよう。

 ともあれ、この原題に示されているように、ギルバート・グレイプ(以下、ギルバート)が家族の中で背負っている荷物の重さは、恐らく、ごく普通の青年の耐性限界を超えるものだった。

 そんな彼が、両親の離婚後、トレーラー・ハウスで、祖母と旅を繋ぐベッキーに吐露した言葉がある。

 「移動が私の人生みたいね」

 このベッキーの率直な物言いに、ギルバートも率直な反応を返していく。

 「僕も移動したいけど、問題は母親。家にへばりついている。留め金で固定されているって感じかな」

 この言葉は、彼の「悩み」や、「神経の磨滅」を端的に表現するものだった。

 それにしても、「留め金で固定されている」という表現には、相当の尖りがある。

 ギルバートは、彼の家族の存在の様態が、「留め金で固定されている」何かになっていると認知しているのである。

 一体、家族とは何だろうか。

 何より、そのことを考えさせる内実が、この映画には直截に包含されていた。

 本来、「パンと情緒の共同体」である近代家族は、同時に「役割共同体」でもある。

 一人の成熟した男は、「父親」や「夫」を演じ、一人の成熟した女は、「母親」や「妻」を演じ、未だ成熟に達しない男児や女児は、それぞれ「息子」や「娘」、或いは「兄」、「弟」や「姉」、「妹」という役割を演じている。

 それぞれの役割が相互に補完しあって、一つの空間内に、家族という血縁共同体を形成するのである。

 しかし、解放された自我が、そこで裸形の自我を曝け出し、外部環境で溜め込んだ膨大なストレスを、存分に吐き出す機能を持つはずの家族の中で、ギルバートの自我は、解放系に心地良く揺蕩(たゆた)っていないのだ。

 ギルバートの役割は、弟妹に「パパ」と揶揄されるほどの負荷状況が、日常的に常態化されていた。

 常に眼を離せない弟の世話を焼く行為は、入浴から食事、そして給水塔騒ぎに象徴される、街への迷惑への監視にまで及び、殆どそれは、「ママ」の役割と言っていい何かだった。

 そして、張本人である弟のアーニー。

 母親から「私の太陽」と偏愛されているから、余計に始末が悪かった。。

 母親の想いが仮託された、18歳の誕生日パーティーがまもないアーニーは、「風呂で溺れて死にかけた」と訴えるほど、生活自律も困難な、知的障害のハンデの日常性を延長させるだけの、危うい自己基準の世界のうちに捕捉されているのである。

 この物理的・心理的に限定された生活に捕捉されているギルバートは、閉鎖系の家族の中で、前述したように、「パパ」のみならず、「ママ」の役割をも担っているのである。

 なぜなら、本来「ママ」の役割を担うべき母親が、「問題は母親。家にへばりついている」という状態なのだ。

 それは彼にとって、「留め金で固定されている」という感触しかない何かなのだ。

 従って彼は、「移動を禁止された青春」の時間を、日常的に延長されてしまった倫理的規範の枠内で、家族という小さなスポットの中に閉じ込められてしまっているのである。

 「なぜ、僕を?」

 ギルバートが、不倫相手の中年婦人に問いかけたときのこと。

 「あなたは、いつもいるから。出て行かないから」

 そう言われて、悄然とするギルバートの暗鬱な表情が印象深く映し出されていた。

 更にギルバートは、夫の死によって、件の夫人が居づらくなって、街を去っていく際、「自分を捨てて皆の世話?」と言われる始末だった。


(人生論的映画評論/ギルバート・グレイプ('93)  ラッセ・ハルストレム <「埋葬」と「再生」、或いは、紛う方ない「若き父性」の立ち上げ> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/93.html