海を飛ぶ夢('04) アレハンドロ・アメナーバル  <「生と死への旅」という欺瞞性>

 ラモン・サンペドロ。

 これが映像の主人公であり、同時にスペインに実在した人物の名である。
 
 彼は20代半ばに、自宅近くの岩場から引き潮の海に飛び込み、浅瀬の海底に強打し、脊髄損傷による四肢麻痺患者となった。この絶対的自由を奪われた生活が30年に及んだとき、彼は匿名のサポーターたちの幇助によって、遂に致死量の薬剤を服用し、念願の「安楽死」を実現したのである。彼の死が本当に「安楽死」であったかどうか疑わしいが、少なくとも、彼の死が「尊厳死」を目指し、その目指したものに一応の自己完結を果たしたものであることは間違いないだろう。

 映像は、そんな彼の究極なる思いを、彼を取り巻く人々との触れ合いを通して、叙情的な旋律で描いた一篇だった。


 脳血管性痴呆症で下肢に障害を持つ、一人の女性弁護士フリアが、ラモンの安楽死訴訟の手続きを支援する人権団体に所属するジェネに連れられて、ラモンのもとを訪れた。フリアは、無料でラモンの弁護を引き受けるつもりでやって来たのである。彼女の内側にある言いようのない辛さが、彼女をラモンのもとに誘(いざな)ったのだ。

 弁護のために彼女が把握しなければならないラモンについての情報は、当然、形式的なものであるはずがない。彼女は初対面のラモンに向かって静かに、しかし本質的な問題を問いかけていく。

 「ラモン、なぜ死を選ぶの?」

 ラモンは、永く彼の中で考え抜かれてきたに違いない言葉を、ゆっくりと吐き出した。

 「つまり・・・今のような状態で生きることは、尊厳がないからだ。他の四肢麻痺患者は怒るかもしれない。尊厳がない生き方だなんて言ったら。でも僕は誰のことも批判しない。生を選ぶ人たちを批判するつもりはないよ。だから僕や、死を手伝う人を批判しないでくれ」

 フリアも反応することで、そこに会話が生まれる。

 「手伝う人がいる?」
 「その人が、恐れを克服できるか、どうかだろう。死に対する恐れだ。でも大したことじゃない。死はいつでも僕たちの周りにいて、誰にでもいつか訪れるものだから。死は僕たちの一部だ。僕が死を選んだからって、なぜ恐れる?死は“感染”しない」
 「裁判になれば聞かれるわ。“なぜ、他の選択肢を放棄したか”と。なぜ、車椅子を拒むの?」
 「車椅子の生活は、失った自由の残骸に縋りつくことだ。例えば、君はそこにいる。僅か1メートル。その距離は、常人には僅かなものだ。でも僕にとって、この距離は無限だ。君に触れようと手を伸ばしたくても、永遠に近づけない。叶わぬ旅路。儚い幻。見果てぬ夢だ。だから死を選ぶ・・・・」

 ラモンとフリアとの会話には、辛いものを抱える者同士の淡い色彩感のようなものがあった。

 二人の関係の接近は急速だった。ラモンの中に、フリアに対する異性愛に似た感情が生まれていたのである。

 その感情は、海岸を散歩するフリアに向かって、健常者と化した男が宙を舞って海岸に降り立ち、女の前に現われて、愛の交歓をする描写によって説明される。勿論、想像の世界だが、ラモンの苦悶に優しげに寄り添うような安直で、情緒過多な描写は、却って、彼の苦悩の奥にあるものをオブラートに包んで、中和するだけの意味しか持たないのではないか。

 人間の死という厳粛で、究極の問題に真摯に向き合っているつもりでも、決して観念でしかテーマと遊べない、「健常なる者」のフラットなイメージがフィルムに刻み付けられたような違和感だけが、そこに残された。

 死をひたすら望む者の思いを、一個の未だ不確かな愛情がどこまで変容させ得るのか、というテーマにアプローチすることで、そこにドラマ性を形成していくかのような思わせぶりの展開は、フリアのラモン宅での事故による車椅子生活によって、恐らく、映像のテーマ性の一つは保留にされた。それは、ラモンの絶望的な感情の流れの先にあるものを描くための一つの布石となった。

 少なくとも私には、30年間に及ぶラモンの苦悶の継続力を、そのような状態に置かれた者なら大抵行き着くであろう、とんでもないペシミズムの世界を、そのままの形で素直に解釈できない「健常なる者」の貧弱な想像力が、必ず寄り道せざるを得ない、「愛」の問題の範疇に脈絡させる安直さが透けて見えてしまうのだ。
 
 このようなとてつもない問題を映像化するには、その作り手が、一週間でもいいから自ら描こうとする主人公と同じ身体的条件を、自らに課して経験することを私は勧めたい。そうすれば絶対的自由を奪われた、その「耐え難き精神的苦痛」をせめて仮想できるかも知れないのだ。


 「・・・・依存する生き方は、プライバシーを犠牲にする。でも何とかうまく対処し、僕の“王国”を守るよ・・・・」

 これは、車椅子生活を余儀なくされたフリアに宛てた、ラモンの手紙の一節。

 しかし、まもなくラモンと彼の家族は、この王国を撹乱する者の訪問を受けることになる。これには伏線がある。安楽死を求めるラモンの裁判手続きが拒否された報道が、テレビに映し出された。そこに映し出されたものの中に、同じ四肢麻痺患者の神父のコメントが紹介された。

 その神父は、「家族や周りの人間に愛情が足りないのだろう」と言ってのけたのだ。この放送を見ていたラモンの実兄は、弟を詰った。

 「お前はさぞ満足だろう。家族に恥をかかせて・・・・」

 愛情をもって実弟を守り続けてきた兄には、神父のコメントは当然心外だった。しかしそれ以上に、家族の愛情に守られながらも死を望む弟の思いに、兄はどうしても遣り切れない気持ちを抱き続けている。

 そんな兄に、弟は必死に反応する。

 「兄さん、待ってくれ。僕の話を聞いて。明日、兄さんが事故で死んだら?真面目な話だ。考えたことあるか?僕はどうなる?家族を養えるか?マヌエラやハビや父さんを僕の僅かな年金で。これ以上困難な状況で、僕に生きていけと?」

 このラモンの心情に、観る者は果たしてどこまで迫れるのか。単に言葉としてではなく、彼にそれを言わせる最も深い所にある不安と恐怖の感情を。これは私自身の生存と、それを継続し得る拠って立つ精神的な世界と全く同質の感情である。

 ともあれ、テレビで暴言を吐いたその神父がラモン宅を訪ねたのである。ラモンにテレビでコメントした同じ文脈の説教をするために。

 その二人の、激しい対話のエッセンス。
 教会の詭弁性を批判された神父が、ラモンを痛罵する。

 「“尊厳死”という言い方こそ詭弁ではないのか?・・・・ストレートに“自殺する”と」
 「・・・・中世なら、私も当然、火炙りだろ?自由を求めた罪で」
 「・・・・命が代償の自由は自由ではない」
 「自由が代償の人生は人生ではない!」

 尊厳死の自由と権利を求めるラモンと、それを認めない神父の議論は当然噛み合うことがない。神父がラモン宅に自説を展開するために訪れたというその事実こそが、ラモンとその家族にとって屈辱的であり、許し難いことだった。

 テレビで家族の愛情の不足を詰った神父に対して、ラモンの義姉のマヌエラだけは、その心情を吐き出さざるを得なかった。

 「あなたがテレビで言ったことは一生忘れません・・・・“ラモンの家族に愛情が足りない”だなんて。いいですか?義弟は愛情に包まれて暮らしています。私は長いこと世話をして、息子のように愛してます。誰が正しいのか分りません。命は私たちのものではなく、神に帰属するのかどうか。でも、一つだけ分ります。あなたはやかましいわ」

 ラモンの日常の世話をし続けてきたのはマヌエラなのだ。そのマヌエラに、事情を知らない神父が、愛情の不足を説くという発言こそ冒涜的なものだった。

 同じ四肢麻痺患者の中に神父のような者が多く存在することは事実だろうが、しかし全ての四肢麻痺患者が、神父のような思考や感情を持っている訳ではないのだ。自分の正しさを強要する傲慢な姿勢こそ、この手の人間の扱いにくいところである。それは、いずれの国でも例外ではないだろう。


 映像はフリアに代わって、ロサという子持ちの女性の存在の重要性を描いていく。

 身の不遇を託(かこ)っていて被害者意識の強い彼女は、ラモンとの初対面以来、彼に見透かされていた。彼女はテレビで知ったラモンにフラットな同情心を持ち、自らの不遇を共有し得るパートナーであるという感覚で、ラモン宅を訪れたのだ。その心情の浅薄さをラモンに指摘され、泣きながら帰宅した彼女だったが、訪問を重ねる度に二人の距離は縮まっていった。ラモンとの遣り取りを通して、ロサの方からラモンの思いに少しずつ近づいていったのである。

 「あなたは私に生きる力を与えてくれる」というロサに対して、ラモンの心情は一貫して変わらない。
 「いいか、僕を本当に愛するのは死なせてくれる人だ。それが愛だよ、ロサ・・・・」

 ラモンはロサに自殺幇助を頼んでいるのだ。それをサポートしてくれる行為こそ、彼は「愛」と呼んでいる。

 映像上では、このようなラモンの決意の固さを、フリアとの関係の破綻の中で、より心情的に分りやすいような描写の導入で補完的に説明している。私にとってこんな描写はどうでもいいことだが、プロットの関係で簡潔に記しておく。

 車椅子状態になったフリアが、まさにその車椅子に乗ってラモンを訪ねて来た。その訪問に感動し、歓喜するラモンの表情が印象的に映し出されたが、死を望むラモンの気持ちに変化がないことを知ったフリアは、彼に死の幇助を約束し、自らも命を絶つと言明したのである。「心中」の決行日の特定を迫ったラモンに、フリアはラモンの著作の刊行した後で、それを遂行することを約束したのだ。

 しかし、ラモンの著書がフリアから彼のもとに送られてきたとき、同封された彼女の手紙を読んだラモンは、その夜、自らを30年もの間縛ってきた暗い床の中で慟哭し、錯乱した。その手紙に何が書いてあったか定かではないが、映像は間接的に、献身的な夫と共に生きることを選択したフリアの切々たる思いが、そこに書かれていたことを映し出していた。

 ラモンはこのとき、二つのものを失った。

 短い期間だったが、愛と呼べる淡い何かを共有したかけがえのないパートナーと、そしてそのパートナーと約束した死への道行きという、それだけは絶対失いたくないもの。

 それは選択肢が一つしかないと括った男と、その男より選択肢が限定されることがないと翻意した女との、決定的なる落差でもあった。

 加えて作り手は、「愛と死」という根源的問題を巡って柔和にクロスした二つの人格が、この機を境に対極的な関係性を露わにしていくことで強調されるだろう、中枢のテーマ性の切迫感を表現したかったと思われる。

 ともあれ、この二つの枢要な、言わば、自我がなお拠って立つ切実な心のラインを、ラモンは同時に失ったのである。ラモンにはもはや、ロサの存在だけが唯一の、死への旅路を約束してくれるパートナーになったのだ。

 ロサはその禁断のカードを、自ら切ることをラモンに約束した。

 その約束の地にラモンが向かうとき、家族との哀切な別離が情感たっぷりに描かれる。家族はラモンの旅が何を意味するのかを知っているのだ。

 ラモンを乗せた車が発進したとき、彼を日常的にサポートした甥がその車を追い駆けていく。観る者は、ここで感涙に咽ぶだろう。しかし私には、こんなドラマティックな描写が目障りでならない。感動を計算して作ったようなエピソードの連続に閉口するだけなのである。観る者の涙を誘って、そこに安上がりなカタルシスを保証してしまったら、何も残らないのではないか。そんな不満が、私の中に終始付きまとって離れなかったのだ。

 ラモンの後半生を貫いたその究極的なる思いは、ロサの直接的幇助によって自己完結した。

 彼はその幇助に直接的、間接的に携わった人々への迷惑を配慮して、その最後のメッセージと共に、自死の現場をリアルタイムでビデオに収め、恐らく、そこに行けば何も残らないであろうと信じる世界に旅立った。
 
(人生論的映画評論/海を飛ぶ夢('04) アレハンドロ・アメナーバル  <「生と死への旅」という欺瞞性> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/04_23.html