物語は、成人したシャオチュンのモノローグで開かれる。
「北京の変貌は目まぐるしい。あれから20年。近代的な街に変身した。今の北京に昔の面影は見られない。私の思い出も、かき消されてしまった。私の思い出も、夢か真実かはっきりしない。私の物語は、いつも夏に始まる。暑さの中で自分の欲望を隠せずに、誰もが曝け出す。夏が永遠に続くかのようだった。太陽は我が物顔で姿を見せ、苛酷なほどの陽を浴びせ、私たちの眼を眩ませていた」
これが、冒頭のモノローグ。
しかし本作は、この類の多くの映画がそうであるような、気持ち悪いほどのナルシズムで塗りたくられた情感系の暴走に流されることなく、語りの諄(くど)さが幾分目障りではあったが、しかし淡々としたエピソードを繋ぐ長尺の物語を、全く美化しない筆致で描き切ったスタンスが印象深い一篇だった。
原題の通り、「太陽が眩く輝いていた日々」という原題のイメージを崩さない、如何にも「チャイニーズ・ニューシネマ」の鮮度の高い感覚で、一気に突き抜けた爽快篇に仕上がっていたのである。
―― 簡潔に、物語の梗概を説明していこう。
文化大革命下の北京が、物語のステージ。
都市の青少年を、雲南省、内モンゴル自治区等々の地方農村に送り込んで、肉体労働を義務付け、思想改造を実践することをスローガンに掲げた、「上山下郷運動」(じょうさんかきょううんどう)、即ち、「下放」という文革の過剰な政策の一つの帰結点の結果、青少年の多くが去った大都市には、今や、残された「女子供」のたちの天下と化していた。
そんな時代の偶発的な空洞の間隙を突いて、存分に騒ぎまくった一群の中学生グループがいた。
グループの中の主人公の名は、シャオチュン。
少年は、北京の街の王道を闊歩する不良グループの仲間に入っていて、あろうことか、合鍵を作って、人家に忍び込む極め付けの悪童だ。
そんなある日、忍び込んだ先のアパートで、シャオチュンはふくよかな顔立ちの美少女の写真を見つけた。
彼女の水着姿が、シャオチュンの視線を釘付けにしたが、閑散とした街で、少年は美少女と出会ったのである。
美少女の名は、ミーラン。
少年と出会ったミーランは、明らかに年上で、訳ありの女性。
当初、「僕の姉さんになってよ」などと言って、暑苦しくアプローチするシャオチュンに対して、まるで歯牙にもかけなかったミーランだったが、シャオチュンの執拗な攻勢で、如何にも不均衡で不相応ながら、暇潰しの感覚で少年の相手役になっていく。
この間、不良グループの揉め事があり、思春期彷徨の只中を必死に駆け抜けるシャオチュンが、そこにいた。
しかし、シャオチュンにとって、ミーランの存在だけが全てだった。
シャオチュンは、毎日のようにミーランに会いにいく。
「私の人生で最高の一日だった。その、爽やかで鳥肌が立つほどの朝の風。燃える枯れ草の匂いも記憶にある。だが、夏に枯れ草があるだろうか。私の勘違いだとしても、あの夏は全てが草の萌える匂いと共にある」
ミーランと過ごす日々の至福を綴る、成人したシャオチュンのモノローグ。
しかし、これが少年の至福の日々のピークアウトだった。
(人生論的映画評論/太陽の少年('94) チアン・ウェン <鮮度の高いシャープな筆致で特化して切り取った、「甘美なる青春の、あの夏の日々」> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/94.html
「北京の変貌は目まぐるしい。あれから20年。近代的な街に変身した。今の北京に昔の面影は見られない。私の思い出も、かき消されてしまった。私の思い出も、夢か真実かはっきりしない。私の物語は、いつも夏に始まる。暑さの中で自分の欲望を隠せずに、誰もが曝け出す。夏が永遠に続くかのようだった。太陽は我が物顔で姿を見せ、苛酷なほどの陽を浴びせ、私たちの眼を眩ませていた」
これが、冒頭のモノローグ。
しかし本作は、この類の多くの映画がそうであるような、気持ち悪いほどのナルシズムで塗りたくられた情感系の暴走に流されることなく、語りの諄(くど)さが幾分目障りではあったが、しかし淡々としたエピソードを繋ぐ長尺の物語を、全く美化しない筆致で描き切ったスタンスが印象深い一篇だった。
原題の通り、「太陽が眩く輝いていた日々」という原題のイメージを崩さない、如何にも「チャイニーズ・ニューシネマ」の鮮度の高い感覚で、一気に突き抜けた爽快篇に仕上がっていたのである。
―― 簡潔に、物語の梗概を説明していこう。
文化大革命下の北京が、物語のステージ。
都市の青少年を、雲南省、内モンゴル自治区等々の地方農村に送り込んで、肉体労働を義務付け、思想改造を実践することをスローガンに掲げた、「上山下郷運動」(じょうさんかきょううんどう)、即ち、「下放」という文革の過剰な政策の一つの帰結点の結果、青少年の多くが去った大都市には、今や、残された「女子供」のたちの天下と化していた。
そんな時代の偶発的な空洞の間隙を突いて、存分に騒ぎまくった一群の中学生グループがいた。
グループの中の主人公の名は、シャオチュン。
少年は、北京の街の王道を闊歩する不良グループの仲間に入っていて、あろうことか、合鍵を作って、人家に忍び込む極め付けの悪童だ。
そんなある日、忍び込んだ先のアパートで、シャオチュンはふくよかな顔立ちの美少女の写真を見つけた。
彼女の水着姿が、シャオチュンの視線を釘付けにしたが、閑散とした街で、少年は美少女と出会ったのである。
美少女の名は、ミーラン。
少年と出会ったミーランは、明らかに年上で、訳ありの女性。
当初、「僕の姉さんになってよ」などと言って、暑苦しくアプローチするシャオチュンに対して、まるで歯牙にもかけなかったミーランだったが、シャオチュンの執拗な攻勢で、如何にも不均衡で不相応ながら、暇潰しの感覚で少年の相手役になっていく。
この間、不良グループの揉め事があり、思春期彷徨の只中を必死に駆け抜けるシャオチュンが、そこにいた。
しかし、シャオチュンにとって、ミーランの存在だけが全てだった。
シャオチュンは、毎日のようにミーランに会いにいく。
「私の人生で最高の一日だった。その、爽やかで鳥肌が立つほどの朝の風。燃える枯れ草の匂いも記憶にある。だが、夏に枯れ草があるだろうか。私の勘違いだとしても、あの夏は全てが草の萌える匂いと共にある」
ミーランと過ごす日々の至福を綴る、成人したシャオチュンのモノローグ。
しかし、これが少年の至福の日々のピークアウトだった。
(人生論的映画評論/太陽の少年('94) チアン・ウェン <鮮度の高いシャープな筆致で特化して切り取った、「甘美なる青春の、あの夏の日々」> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/94.html