恋人たちの食卓('94)  アン・リー <現代家族の流れ方に溶融する自己完結的な映像>

 人間は自分の中にあって、自分が認知する性格傾向とほぼ同質のものを相手の中に確認するとき、その性格傾向が「肯定的自己像」に近いほど、相手に対する親和動機が高くなるだろう。

 人間の性格傾向は、多くの場合、「自己像」のうちに固められているので容易に変化する何かではない。

 ところがその性格傾向のうちに「否定的自己像」が幾分でも張り付いているなら、その性格傾向とほぼ同質のものを認知する相手に対して、「微妙な距離」を確保せざるを得ないだろう。

 「微妙な距離」とは、必要以上に相手の性格・行動傾向を意識してしまうことによって、相手とのナチュラルな適正スタンスが取りにくい距離感のことである。

 本作の主人公の父親は、次女の中に、その「微妙な距離」を感じ取っていた。

 「頑固さ」、「プライドの高さ」、「率直さの欠如」など、まるでこの父娘は「似た者同士」だった。

 その二人の性格傾向に対して、本人たちは決して「否定的自己像」のイメージのうちに固めていた訳ではないだろうが、それでも、そのような性格故に、相手に対して素直に接触できない「微妙な距離」が存在することを、暗黙裡に了解し合っていたはずだ。

 この「微妙な距離」が、常に二人を裸形の自我をコンフリフトさせ、しばしば直接対決も辞さなかった。

 それが最も端的に表現される場が、日曜ごとに父親が娘たちに振舞う、豪華な中華フルコースの洪水の如き「団欒」の渦中であった。

 既に一流ホテルの名シェフを引退していた父親にとって、味覚に対する劣化を防ぐ必要があったのだ。

 味覚に対する劣化をを意識させる何かが、彼の中に存在していたこと。

 それこそが由々しき事態だったのだ。

 そのため彼は、このような形で豪華な晩餐を催すのである。

 父親にとって味覚への拘泥は、その拠って立つ自我の安寧の決定的基盤であり、それ故に、その「商品価値」を貶める訳にはいかなかったのである。

 しかし、幼少の頃から父親の味覚に親しんできた次女にとって、味覚への拘泥もまた、いつしか父親譲りの高感度能力を培養するに至り、「女コック」を夢見る思いを形成してきたのである。

 彼女は、性格傾向のみならず、父親の味覚に関わるDNAを、そのまま継承してきたのだ。

 本作の中で、料理のことに言及するのは次女だけであった事実が、如何に彼女が味覚への拘泥を示すことの証左であった。

 「変ね、昔の思い出は料理のことばかり」

 これは、彼女が恋人に語った言葉。

 然るに、彼女は、決して自宅では料理を作らない。

 彼女が自宅で料理を作ることへの抵抗感を、身を持って感じているからだ。

 抵抗感の供給源である頑固な父親の存在と、その父親譲りの頑固さを持つ次女。

 しかも、この父親は、台湾での伝統的家族観に由来する封建的な思考の持ち主だった。

 「コックは、女が選ぶ職業ではない」

 この父親の抵抗力に弾かれて、次女はいつしか、どうしても最近接させることができない「微妙な距離」を、父親との間に形成してきてしまったのである。

 この父親と次女の関係が、本作で描かれた家族像の中枢に位置している。

 そう把握するのが自然である、と私は思う。

 高校の教師の長女や、大学生の三女である、他の姉妹に関わるエピソードの挿入は、本作のテーマの稜線を、「解体の危機に瀕する家族の在り方」として伸ばす役割を果たすことで、物語の奥行きを広げていくが、どこまでも、この家族の中枢的な関係は、父親と次女の関係のうちに収斂される何かであると考えていい。


(人生論的映画評論/恋人たちの食卓('94)  アン・リー <現代家族の流れ方に溶融する自己完結的な映像>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/94_09.html