暴力脱獄('67) スチュワート・ローゼンバーグ <理念系の称号を付与するための作り手の想念の内的風景>

  本作は、そんな私の個人的評価を言えば、それなりに面白い娯楽作品以上のものではなく、恐らく、それ以下でもない。

 作品の内容は、私が最も嫌う「スーパーマン映画」のジャンルに入るもの。

 人物造形が極端なまでに類型的であるという内実も、全く馴染めない。

 だから本作は、スーパーマン的ヒーローの「不屈の脱獄譚」として愉悦できるか否か、そこに評価の全てが懸かっている一篇であった。

 何より、ニューシネマの時代の多くの作品がそうであったように、本作もまた、「絶対悪」としての「権力」や「体制」という巨壁が物語の中枢を支配し、そこで支配される者たちの、「反権力」という名の瞋恚の炎(しんい のほむら)が集合する。

 集合された瞋恚の炎の中から、その怒りを代弁する不屈の「スーパーマン」が、巨壁の支配による圧力と対峙し、敢然と闘いを挑んでいく。

 その闘いは、「相手を倒すか、自分が倒れるか」という、「反権力」の果敢な闘争を必然化するのだ。

 「絶対悪」としての「権力」とは、刑務所という名の巨壁を支配する刑務官たち。

 「反権力」の巨壁の支配による圧力と対峙し、敢然と闘いを挑む不屈の「スーパーマン」は、囚人たちのヒーローであるルーク。

 本作の原題となった「Cool Hand Luke」。

 その意味は、「容易に物に動じない男(ルーク)」。

 ルークに一目置くに至った、囚人たちのボスであるドラグラインの命名だ。

 これは、ポーカーでブラフをかけて、大金をせしめた度胸を見せたことからネーミングされたもの。

 元々、酩酊の果ての公共物(パーキングメーター)破損という、軽微な罪で2年の懲役刑によって刑務所入りしたルークだが、「容易に物に動じない」性格の本領を発揮して、瞬く間に「塀の中」のヒーローになっていく。

 そんな「Cool Hand Luke」だったが、無期懲役の囚人もいる中で、二年の懲役刑ながら、凶暴な権力の振舞いに服従することを拒絶し、繰り返し脱獄を試み、最後は「バニシング・ポイント」(1971年製作)の主人公の苛烈な人生の閉じ方の如く、笑みを浮かべて「殉教」するに至る。

 ただ、それだけの格好良い男の、格好良い生き方をフラットに表現するだけに留まらず、本作の作り手は、「神なき時代」の実存的な精神世界のメタファーとも言えるような、曰く言い難い「思想性」を張り付けたのである。

 神を信じないルークが、天を仰いで繰り返し問いかけていくのだ。

「俺たちを見守っていると信じているのか。こんな命、いつでもくれてやる!神よ、聞いたか!さあ、持っていけ!そこにいるのか!愛せ!殺せ!徴(しるし)を見せろ!」

 労役中に雷雨が襲来し、「戻れ」というドラグラインの言葉を無視して、天に向かって叫ぶルークの異様な光景だった。

 更に、ルークの母親の死に関する、こんなエピソード。

 「母親が死んで、葬式など考え始めると、知らず知らず、気持ちがおかしくなる。つい逃亡したくなるもんだ。しばらく労役は中止だ」

 刑務所長にそう言われたルークは、懲罰の対象行為なしに懲罰房へ拘禁された。

 この一件を契機に、ルークは脱走を繰り返すようになるが、その心理は了解し得るものと言える。

 「絶対悪」としての「権力」に対して、敢然と闘いを挑む不屈の「スーパーマン」の立ち上げを告げる、理不尽な懲罰房入りという、極めて分りやすい物語設定だったからだ。

 このとき、懲罰房から解かれたルークが、亡き母を偲んで、バンジョーの弾き語りをするシーンが挿入されていたが、そこでも神が語られていた。

 雨が降ろうと 寒かろうと
 車の前に キリスト下げてりゃ 
 何の心配も ありゃしない 
 プラスティックの そいつはピンク
 暗い中でも キラキラ光る
 持ってお行きよ
 遠くへ旅するときは
 やさしい聖母を 手にしていれば
 アワビ貝の台に座って
 ライン石を まとったマリアを
 150キロで ブッ飛ばしても
 怖かない
 だってマリアは
 地獄へ送ったり しないからさ

 嗚咽ながらの弾き語りの中で語られたのは、キリストと聖母マリアへの存分のアイロニー

 その直後の脱獄の決行と、その挫折の物語展開。

 その度に、ルークの足の鎖(画像)が増えていくのだ。

 それでも脱走を止めないルーク。

 捕縛されたルークを待つのは、苛烈な懲罰。

 「もう殴らないでくれ。神様、お願いだ。神様、もう殴らないでくれ」

 ここでも神が出てくるが、今度ばかりは神に祈り、改心の吐露。

 しかし、これは懲罰回避の方便だった。

 「本当にまいったのさ。改心しなかっただけだ。計画などしたことは一度もない」

 これは、3度目であり、トラックを奪った末の最後の脱獄の決行の際に、同行するドラグラインに語ったルークの本音。

 更に、計略的な脱獄行を見事に遂行するルークに感心するドラグラインに、ルークは、一切が成り行き任せの行動であると語るのだ。

 成り行き任せの行動で、命懸けの脱獄行を遂行するルークにとって、その契機が懲罰の対象行為なしに懲罰房へ拘禁された理不尽な事態に搦め捕られたとしても、それを継続させていくパワーの源泉が、今や、「絶対悪」としての「権力」に対する闘争という、軟着点を持ち得ない行動であると説明するのは困難になっているのである。

 もうそれは、不屈の「スーパーマン」の立ち上げを捨てない者に、それ自身を独立的な価値と看做し、そこに理念系の称号を付与するための作り手の想念の内的風景を見るばかりであった。


(人生論的映画評論/暴力脱獄('67) スチュワート・ローゼンバーグ <理念系の称号を付与するための作り手の想念の内的風景>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/67.html