真昼の決闘('52) フレッド・ジンネマン  <男が覚悟を括るとき>

 灼熱の荒野に、かつて保安官の手によって監獄送りにされたアウトロー、ミラーが戻って来る。リベンジのためだ。

 そんな厄介な男を、彼の舎弟たちが駅に迎えに行く。男たちには、何もかも予定の行動だったのである。駅に迎えに行く舎弟たちを目撃した町の住民たちは、不吉な予感に駆られていた。

 「おい、見たか。今日は大変な日になるぞ」

 舎弟たちの一人は、保安官事務所に顔を出そうとしたが、別の者がそれを止めた。

 「バカめ、来い!」

 彼らは保安官事務所の中で執り行われている結婚式をやり過ごして、駅に向って行った。駅には監獄送りにされたアウトローが出所して、やがて列車で戻って来る。早速、駅員はその情報を伝えに保安官事務所に向ったのである。

 事務所では、花婿となるケーンと、花嫁となるエイミーが式を終えて、今にも旅立つところだった。ケーンは自分の後任となる保安官のことが気になるが、町の者は既に平和を確立した町の治安について、何も心配していない様子だった。

 そんな華やいだ雰囲気の中に、駅員が最悪の情報を伝えに来たのだ。それを知って驚く花婿のケリー。逡巡するケーンは新妻を伴って、背中を押されるようにして町を後にしたのである。

 ケーンの心が揺らいでいた。

 自分の気持ちを抑制できなくなった彼は、遂に馬車を途中で止めたのである。
 
 「どうしたの?」とエイミー。
 「町へ戻ろう」とケーン
 「なぜ?」
 「銃一丁もない」
 「だから早く」
 「いや、敵に後ろを見せたくないのが本音だ」
 「どういうこと?」
 「今は話せん」
 「止めて」
 「いや、戻る」

 ケーンは馬車を、町に向ってUターンさせる決断をした。敵前逃亡した自我に煩悶するようなプライドが、ケーンには頑としてあるようだ。

 しかし新妻は、夫の内面が全く理解できない。詳細な事情を知らないからである。だから、今すぐにでも新天地に旅立って欲しいのだ。しかしその表情には、何か不吉な予感を感じとった者の焦燥感が顕著に映し出されていた。既に新妻の輝きがすっかり失せていたのである。

 夫もまた、焦燥感に駆られていた。

 町への危害も気になって仕方がないのだ。これは、職業的責任感に由来するものだろう。この煩悶が飽和点に達したとき、ケーンは妻の制止も顧みず、町に引き返して行ったのである。

 町に着いたケーンは、エイミーに事情を話した。

 「5年前、殺人罪で絞首刑になるはずの男が、終身刑から更に減刑され、釈放だ」
 「それで?」
 「凶悪な奴だ。暴力沙汰になる」
 「もう関係ないわ」
 「恨まれている」
 「職務だったし、もう辞めたのよ」
 「新任が決まるまではいる。私は私なんだから」
 「だから、何?」
 「奴らは私を狙ってくる」
 「なら、逃げて」
 「逃げても4人に追われる。荒野の中を・・・どこまで逃げてもダメだ。死ぬまで追われる」
 「行方をくらませば?お願い。私と行って」
 「ダメだ」
 「私のために強がるのは止めて」
 「そうではない。勘違いするな。私の町だ。友人も多い。自警団を作れば対抗できる」
 「どうかしら?」
 「来れば対決する・・・気持ちは分る」
 「本当?」
 「君の信仰に背くことだからな」
 「でもやるのね。私たち、結婚したばかりよ。将来に夢もあるのに」
 「時間がない。ホテルで待っててくれ」
 「嫌よ、そんなの。妻か未亡人か決まるのを待つなんて。あんまりよ。来ないなら、私は正午の汽車で発つわ」
 「私は残る」

 夫のその一言に意を決した妻は、優柔なる振舞いを見せることなく、夫から離れて行ったのである。

 夫は妻を少し追ったが、引き止めることをしなかった。

 彼は未来のプライベートな至福のイメージよりも、「敵前逃亡した保安官」というレッテルを貼られることを何より恐れていたのだ。平和主義者のクェーカー教徒の妻は、そんな夫の煩悶には付き合えないのである。

 このとき、ケーンには勝算があった。

 アウトローグループがどんな無法を企てたところで、町ぐるみで協力すれば充分防御し得ると考えていたからである。

 ケーンにはこれまで、自分が町を守ってきたという自負があった。この自負がケーンを支えてきたのだろう。だから町には、友人知己が多くいた。現に、結婚式も町ぐるみで祝ってくれたのである。町に対する感謝の念も当然あったはずだ。彼の責任意識は、ここに根ざしてもいたに違いない。

 そんな町に対する幻想が崩れるのは、あまりに早かった。

 町を牛耳っていた時代のアウトロー一派への恐怖感を、町の者は忘れていなかったのである。

 まず町の裁判官が、ケーンの要請を無視して町から離れて行こうとした。

 「なぜ?」とケーン
 「大衆を知らんな。紀元前のアテネで、市民が暴君を追放したが、後年その暴君が兵を率いて戻ると、同じ市民が向い入れ、政府要人を処刑した。同じことが8年前、ある町で起こっている。私はある女の口利きで、死を免れた」
 「判事だろ?」
 「その判事を今後も続けたいからね。君もバカだな。彼のやり口を忘れたか?“縛り首にはならん。必ず殺しに戻って来る”」

 そう言い残して、判事は町を後にしたのである。

 あと一時間もすれば、アウトローが戻って来る。しかもケーン保安官への復讐のために。だからそのケーンさえいなければ、或いは、何も起こらないかも知れないのだ。

 人はしばしば危難に遭ったとき、自分の足元に洪水が及んでいなければ、まだ自分の身は大丈夫だと考えるところがある。町の人々にも、このような小市民的な防衛意識が支配していたのである。

 これが何日間とか、何週間とかの余裕があれば、もっと客観的に、冷静に事態に対処できたかも知れない。しかし今、この町には僅か一時間しか安全の保証が約束されていないのだ。この決定的な状況のハンディが、明らかに人々を保守化し、卑小な存在にしてしまったのである。

 そんな意識が支配する町に、ケーンは舞い戻って来たのだ。

 このときケーンは、歓迎されざる何者かであった。

 戻って来た英雄志願者を、誰も心から受容しないのである。受容のポーズを示す者はいた。しかし誰もケーンの側に組して、共に銃を取って闘おうとする者の不在を知るや、受容のポーズを示した者は、見え透いた理屈を放って足早に立ち去って行った。

 大体、それが普通の人間の、ごく普通の反応の様態であると言っていい。人間の信念の強さというものは、多くの場合、自分の身の安全を保証した上で測量されるのが常なのである。

 ケーンは、明らかに読み間違えたのだ。

 人の心の弱さを、町の者の善意に対する自分の信頼度の高さを、そして状況の微妙な影響力の測り知れなさを。

 副保安官はバッジを返しに来た。アウトローを裁いた司法官は、早々と町を去って行った。皆、四人ものアウトローと闘う気がなく、ケーンの頼みとする友人たちが次々に自分の巣に戻って行ったのだ。居留守を使ったり、ケーンを罵ることで自分の弱気を誤魔化したり、人は実に様々に自分の巣に隠れ込む算段を工夫するものである。

 「助っ人が欲しい。多ければ多いほどいい」

 このケーンの呼びかけに、誰も反応しないのだ。反応しない理由は、単にアウトローたちが怖いだけなのに、皆、それぞれ合理的な理由付けを考えて、巧みに安全地帯に逃げていくのである。

 人々のそんな振舞いの中に、際立って切実なエピソードがあった。

 彼の友人の一人が、居留守を使って、妻にケーンを追い返させたシーンがそれである。そのときの夫婦の会話は、あまりに人間的であり過ぎた。

 「彼が来る。私は留守だと言え」と夫。
 「友だちでしょ?」と妻。
 「文句を言うな」
 「嘘と分るわ」
 「いいから・・・」

 ここで、ケーンが扉をノックした。妻が顔を出して、ひとこと言った。

 「留守なんです」
 「どこへ?大事な用なので・・・」
 「きっと・・・教会だと思うわ」
 「一人で?」
 「私もこれから・・・」

 妻はそのとき、一瞬うつむき加減になった。ケーンは全てを理解したのである。

 「お邪魔しました」

 ケーンを追い返した妻は、部屋に戻って沈み込んでいる。そこに夫が現われた。

 「何だ、その顔は。後家さんになりたいのか!」
 「いいえ」

 それが、映像が映し出した夫婦の会話の全てだった。

(人生論的映画評論/真昼の決闘('52) フレッド・ジンネマン   <男が覚悟を括るとき>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/10/blog-post_28.html